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「ドットが開いたポップ絵画」
                     ロイ・リキテンシュタイン

リキテンシュタインは 漫画を現代のマス・メディア文化を象徴する記号 としてとりあげる

私たちのなかには 芸術を高みに置き 大衆の娯楽である漫画を  低俗ものとみなすかんがえかたが 根強くある

その落差を否定し 漫画をそのまま芸術表現とする彼の作品は 私たちにショックを与える

彼の芸術表現は 芸術も漫画も 同じ記号の平面にある  現在の文化状況を明かさまにしている

 

Roy Lichtenstein1923-1997

1923           ニューヨークの中流家庭に生まれる

1940~48    オハイオ州立大美術学部 美術の教員資格取る

1943~45    兵役

                  ニュージャージー州ラトガーズ大 A・カプローと知り合う

1960   27歳 漫画の絵を描き出す

1962   29歳 レオ・カステリ画廊で個展

1995   72歳 東京現代美術館「ヘアリボンの少女」6億円で購入

  「ヘアリボンの少女」121.9×121.9cm 1965  東京現代美術館

ドカンリキテンシュタインSS.jpg
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ヘアリボンの少女
何者かが背後に迫る気配に 少女は不安にかられて振り返る
はたして彼女は危機を乗り切れるのか? 
画面は 少女の顔をクローズ・アップでとらえ 事の重大さを強く訴えかけています
リキテンシュタインは 現代のマス・メディアが 私たちに差し出す ヴィジュアルな記号の一つ 漫画を取りあげます
漫画はその内容を 一瞬のうちに伝える記号性をもっています
その一こまは 雄弁かつ瞬時に 全体の筋書き 面白さ 対象とする読者の層までもを 物語ります
彼は 劇的な漫画の一こまを選び取り そのまま大画面に 引き伸ばしたように描きます
リキテンシュタインは 漫画の記号性を題材にしたことについて次のように語っています
 
「それは何かの絵のように見えるのでなく 物そのもののように見えるのです」
Roy Lichtenstein,Janis Hendrickson, 1995, Benedikt Taschen

リキテンシュタインが 漫画の記号性をとり出し 強調することに成功したのは
漫画の印刷に使われるドット(網点)を そっくりに画面に描き込んだことによっています
彼の漫画絵画は ドットの描写によって 印刷された紙面を そのまま拡大したような 無機的で機械的な「物そのもののように見える」記号の側面を強調することに成功したのです


都市の事物は画家の宝の山
アメリカの現代美術が展開される はるか先に 実験的な試みを展開していた デュシャンは 別格として
現代都市の事物とその記号性を表現の対象とする道が 大きく開かれたのは
一九五〇年代の ジョーンズと ラウシェンバーグの表現に よっています
先ず その経緯をふり返ると
ラウシェンバーグは 都市の廃品をそのまま 前世代の芸術である抽象表現主義の空間に コンバインさせました
 






                                                       
                                                       「モノグラム」R.ラウシェンバーグ1955ー59



日常の事物の異様な存在感を かつての芸術空間につきつけた その芸術表現は 効率を求めて高速化する 都市の時間の流れを 批判的に浮き上がらせました
一方、ジョーンズは、都市の事物に負わされた記号性をとりあげ、記号を読みとることに順応し、事物の表面しか見なくなった私たちの歪んだ認識行為を批判的に明らかにしました。 





                                                       
                                                         

                                   「四つの顔のある標的」J.ジョーンズ1955



現代都市の生む事物と記号を使うことに先鞭をつけた 彼らの芸術表現の先には 広大な日常の事物の領域が広がっていました

                                       




                                                A.カプロー,ロングアイランドでのハプニング1966一九六〇年代

 

ハプニングを始めたアラン・カプローが *「一四番街を歩くことにはどんな芸術の傑作よりも驚きがある」 と語るように この時期 画家たちは 先を争って日常の領域に 自分が専有する素材を求めました
         
*ロイ・リキテンシュタイン. ローレンス・アロウェイ. 1990美術出版社

画家たちが 日常の事物と記号に殺到する姿は 芸術のゴールド・ラッシュか あるいは 西部の土地開拓 さながらの光景です
先に目をつけ 表現した者が その記号を占有する作家となります
無論 日常の事物と記号を 芸術表現にするには ただそれを素材とする というだけでは不十分です
事物を記号たらしめている構造 を理解し その構造を あからさまにしなければ 芸術表現として成立しません
漫画の領域をいち早く押さえたリキテンシュタインは
ドットを機械のように無機的に描くことによって 漫画のもつ記号の構造を示し そこに新たな芸術表現をうちたてました
2週間遅れたウォーホルの 絵具のたらしを残す技法は まだ抽象表現主義の影響下にありました







                                       

                                   ウォーホルの漫画絵画「ディック・トレーシー」1960.


リキテンシュタインを発見し プロモートたのは ポップ・アートの仕掛人である画商のレオ・カステリです
一九六一年の夏 彼はリキテンシュタインに 漫画絵画を見せられるやいなや 即座に彼を新人作家として売り出すことに決めました
実は、ウォーホルもリキテンシュタインと同じように漫画を主題に制作を試みていました
しかし 彼はカステリに作品を見せるのが 2週間ほど遅れました
カステリのもとに絵を見せに行ったウォーホルは スタッフのアイヴァン・カープから リキテンシュタインの漫画絵画を見せられます
リキテンシュタインの漫画絵画は ドットの描写によって 漫画の記号性を完璧にとらえていました
それを一目見たウォーホルは「ああ、なぜこれが思いつけなかったのだろう」と嘆きます
まだ抽象表現主義の影響下にあったウォーホルには 漫画絵画にドッドをそのまま取り入れることは思いもよらなかったのです
彼は漫画を表現の素材にすえはしたもののその作風は まだ 筆に含ませた絵具をたらし 画家の描く行為を強調する 抽象表現主義的段階にありました
ただ作品を画廊に持ち込む時期が遅れただけでなく 表現の追求において リキテンシュタインに はるか先を越されたウォーホルは 漫画の領域をあきらめざるを得ませんでした
しかし 画家たちが先を争って新たな領域を求めているこの時期 ウォーホルには一刻の猶予もありませんでした
 
*「そこですぐに、ロイがこんなに上手に漫画をやっているのだから 自分はきれいさっぱり漫画をやめて 自分が一番乗りになれる他の方向 <量と反復の方向> に進もうと決めたのです」と後に彼は語っています
 
都市の記号を選び その記号性を強調するリキテンシュタインの漫画絵画は ウォーホルをはじめとする 他の作家の主題の選び方と 制作の方法に 大きな転機を与えることにもなったのです
*Roy Lichtenstein, Janis Hend-rickson, 1995 , Benedikt Taschen






                            
Leo Castelli 1907-アメリカ現代美術の仕掛人

ラウシェンバーグ ジョーンズを発見し プロモートする
以後 ポップアートを始めとする アメリカ現代美術の潮流に ことごとく関わっている


ヴェンディ・ドット
先にもふれたように リキテンシュタインが画面に丹念に描き込んだのは ヴェンディ・ドットと呼ばれる写真製版の網点です
新聞や漫画雑誌などの安価な印刷では 色彩の中間の調子を表現するために 肉眼でもはっきり見える大きな網点が使われます
彼は ドットの機械的 無機的なニュアンスを再現するために さまざまな試みをします
穴のあいたアルミ板の上から インクをこすりつけたり 金網の上に絵を乗せ 網の凹凸をこすり出す フロッタージュなども試みました









                                                「Vicky 」1964. の部分 ドットによる肌色の表現が見える


そして結局 丸い穴の金網板をステンシル(型紙)として用い ドットの規則的 機械的なニュアンスを再現しました
考えてみれば おかしなことですが 機械印刷によって 絵画的な陰影を簡便にあらわすために発明された網点は 今度は 芸術表現の領域で 画家リキテンシュタインの手によって 機械の仕事そのままの入念さで 描かれることになりました


リキテンシュタインの表現
リキテンシュタインの表現も ジョーンズと同じく<都市の事物の記号化による疎外>の表現です

*「私はいつも、芸術である印と芸術でない印の違いを知りたいと思ってきました」と彼は「芸術でない印」のひとつ 都市の一記号である漫画をとりあげた 絵画の制作の動機 について述べています
*Roy Lichtenstein, Janis Hend-rickson, 1995, Benedikt Taschen

リキテンシュタインの制作は 「芸術と芸術でない印の違い」を手わざで埋めることです
画家の手わざの歴史をふり返ると
古典期の画家は 自然の事物を いかにそれらしく再現するかに労力を費やしました
画家の手の痕跡は リアリティをそぐものとして 画面から消去されました
リキテンシュタインの画面からも かつての画家と同じように 画家の手の痕跡はリアリティをそぐものとして消去されます
その意味では 彼は現代において かつての画家のように 職人的な手わざを発揮できる場所を見つけたと言えます
しかし彼の職人的技術は 自然の表現を求める かつての画家たちのそれ とは対極にあります リキテンシュタインの労力は 都市の記号である 印刷された図版の 機械的なニュアンスをいかに再現するかに注がれます 
彼は 手の痕跡を消去した作業によって 画面上に 印刷メディアの構造自体を浮き上がらせることをめざします
リキテンシュタインは ポピュラーな名画を そのままモチーフにし 漫画絵画と同じ技法で作品を作ります
モネの「ルーアン大聖堂」による 「ルーアン大聖堂」Ⅰ-Ⅴ 1969がそのひとつです
今や 名画も 漫画の一こまと同じく 現代のイメージ記号の一つ という訳です
彼は 漫画絵画と同じ手法で ドットを丹念に描き込みます








                                                                          ルーアン大聖堂セット2,1969

モネが 刻々と変わる色彩をタッチで追った画面を リキテンシュタインは ドットで追究する(図版のようにドットがとんでしまうと 彼のアイデアは意味を成さない)

「それは機械のような技術によって 印象派 もしくはそれに近い作品を 生む工業的な手法だ しかし モネが「大聖堂」あるいは一枚の「積みわら」を描くのに費やした時間の おそらく一〇倍くらいかかることになる」
ロイ・リキテンシュタイン.ローレンス・アロウェイ 1990.美術出版社






                                     「積みわら」1969. モネの積みわらによる



モネの「積みわら」1891による リキテンシュタインは このように自身の手法が労力を要することを強調しています。
手の痕跡を消去し 機械の無機的な表面を得るためには 職人的な技術と労力を要する と言うのです おそらく 彼は 漫画絵画が 漫画自体のもつ軽薄なイメージと 同様にみなされることを恐れ 言わずもがなの 制作の舞台裏を語ったのです
また同じように 他の場で リキテンシュタインは 彼の漫画絵画を弁護して それが決して漫画の一こまを そのまま拡大したのはないこと 芸術表現とするために 入念にデッサンを取り直し 構成の密度を高めていることを 強調しています
ウォーホルが「僕の作品は僕ではなくて助手が描いている」とうそぶく姿は 真面目なリキテンシュタインには 遠いものでした
彼の手わざによる機械のドットへの挑戦は ちょうど モネが近代の色彩理論に 画家の感覚と手によって挑んだことと 対をなしています
しかし モネが光学と 理論テクノロジー全体に挑む いかにも分の悪い戦いだったのに対して リキテンシュタインの ドットへの挑戦は たとえ労力を要するものであれ 機械が打ち出す円形のドットを 機械になりきって追えばよいというものでした


機械になったリキテンシュタイン
リキテンシュタインは 機械の生む網点のニュアンスを再現すべく モネの十倍 そしておそらくは 機械の何十倍 何百倍もの時間を労して描きます
彼の絵画は 手わざの時間を押し隠しています
それはウォーホルの絵画が シルクスクリーンの版を繰り返し 版のずれをそのまま止めて制作の時間を画面上にあからさまにする方法と好対照をなしていています
手わざの時間を押し隠すリキテンシュタインの方が ウォーホルよりよほど「機械」になる努力を自らに強いています
ウォーホルの表現では 芸術表現自体が メディアの記号化の流れによって疎外されている という認識が その射程にはいっています
彼が画面にぎこちなく残す版のずれは 記号を繰り出す機械になりきれない 人間ウォーホルの手の痕跡です
残された手の痕跡が 彼の表現を 記号からの疎外を 批判的に表明する営みにしています
それに対し リキテンシュタインは 記号を再度記号化する過程の 手の痕跡を あくまで隠します
その点から言えば 彼の表現は <事物の記号化による疎外>を隠蔽する表現 と呼ぶべきかも知れません


リキテンシュタインは 芸術の遊園地を作る?
リキテンシュタインは 都市の記号である漫画を 再び記号化し 芸術表現とします
彼は 作品の背後に 芸術の記号とするために費やした手の痕跡を隠し 再び都市の記号のレベルにそれを置きます
それは ちょうど 遊園地が すでに記号化された童話や物語を さらに具体的な事物に記号化して 大衆に提供する手法と同じです
リキテンシュタインの作品の背後に 手わざに費やした膨大な時間が隠されるのは 遊園地の童話や物語の世界の背後に それを支える 実際の事物の側面 が注意深く隠されている事情と同じです
遊園地と等価なものになった 美術館を訪れ リキテンシュタインの作品を見る観客は
童話や物語の虚構を楽しむように かつて親しんだ漫画を芸術として味います
しかし 美術館を遊園地と等価にするのは リキテンシュタイン個人の意図というより
都市の<記号のシステム>の意図です
彼が手技の痕跡を消し去り 美術館を遊園地と等価にするにふさわしい表現 を展開するのは 都市の<記号のシステム>の意図を理解した彼が 都市の芸術の制度に 素早く順応した結果と言うべきでしょう
再びウォーホルと比較すると
ウォーホルはシルクスクリーン版の網目を通すことで選んだ都市の記号の密度を一段階粗くします
彼は その荒さを前面に提出し 記号を再記号化する 作家の営みを 隠さずそのまま示します
リキテンシュタインの表現が 芸術表現自体が被る <記号のシステム>からの疎外を 隠してしまうのに対して
ウォーホルの表現には芸術表現を遊園地と等価なものにする<記号のシステム>の働きをあからさまに示そうとする意図があります
無論 彼の作品も 遊園地と等価になった美術館に収容されます
そこでは 記号に慣れきった多くの観衆は 彼があからさまに示した記号の再記号化の営み を見ずに 新たな芸術として 彼の作品を見ることになります
しかし ウォーホルなら 「観衆がどう見ようと それはそれで いいんじゃないかな」とでも うそぶきそうです








都市の記号のシステム 東京現代美術館の常設展示室 photo: 「東京人」1995 no.93
 
都市は <記号のシステム>によって 自身の空間を記号化するだけでなく 大量生産によって生み出される大量の商品と マス・メディアを介した大量の記号化された情報 を私たちに差し出します




 
 

つるつるした遊具で満ちた 遊園地の空間  photo: 「楽しい遊園地」小学館 1986

都市の<記号のシステム>が 市場に出まわった芸術の記号を収集し 芸術記号の遊園地として再構成する場所が美術館です
リキテンシュタインは 都市の<記号のシステム>に 手の痕跡を消し去った 完璧な芸術の記号として 自らの作品を提供しつづけました
今や リキテンシュタインの漫画絵画は 現代都市の完璧な芸術記号の一つとなりました
それは まさに現代の古典です
彼の完璧な芸術の記号の一つ 「ヘアリボンの少女」1965 を東京現代美術館が大金をはたいて購入したのは一九九五年のことでした

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