現代芸術(アート)と時代をかんがえるキーワード「疎外」
ここでは 「疎外」と芸術の関係について述べます
芸術と時代の時空の不可分な関係にさらにふみこむためのキー・ワードが「疎外」です
私たちが 現実に対して必ず満たされない部分を持ってしまうことを「疎外」と呼びます
「疎外」は私たちが存在することの根本的な矛盾のあらわれです その矛盾は 私たちが内的世界 すなわち精神を持つことからきています
私たちは 現実には 環境に身を委ねて存在する微小な一点にすぎない限りある存在です それでありながら 私たちの精神のうちでは 自身の視点を世界の中心にすえ 世界を可能な限り把握しようとする活動を持ちます この矛盾したあり方が私たちを「疎外」の状態に置きます
そこで 私たちの日々の生活は 把握した世界を望むかたちに変化適合させその結果を享受すること すなわち 「疎外」を打ち消す営みだといえます 「疎外」と「疎外の打ち置けし」の関係は 私たちの日常に止まらず 広く人類の歴史にまで敷衍することができます
人類の歴史は 「疎外」を打ち消そうとする連綿と続けられる営みとみることができます 芸術は人類の永続的な営みのひとつと位置づけられます
このようにみれば 芸術は私たちの精神の領域と現実の領域の双方をつなぎ 「疎外」を見えるかたちに具体化する営みです
G.W.F.Hegel
1770-1831
「精神現象学」
1807
ヘーゲルによれば 私たちの生きる営みとは 私たちの精神のうちに抱く理想を現実化してゆくことです そこには 常に理想と現実のギャップが生じます 私たちが抱えるこの理想と現実のギャップが「疎外」です すると 私たちの生きる営みは 「疎外」と「疎外の打ち消し」の運動を連綿とつづけ 精神のうちの理想にちかづくことです 彼のかんがえでは 「疎外」は ついには私たちの精神の高まりのうちに解消することになります
Karl Marx
1818-1883
「資本論」1863
ヘーゲルの言うように 私たちの理想が精神に実現されたとしても 現実の方はいったいどうなるのか?
マルクスのとらえる「疎外」は 精神と外界のあいだにたつ私たちの身体が 自身を双方の位相に反転させて関係づけてゆく 動的でぬきさしならない関係です 彼は ヘーゲルとは反対に 私たちが身をおく現実の改善に「疎外」を解消してゆくことをかんがえます
ヘーゲルは 私たちの<「疎外」を精神の問題に 反対にマルクスは 私たちをとりまく外的現実の方に還元します したがって 彼らが描く「疎外」の像はいずれか一方にゆがんでゆくことになります
<疎外>の像を微視化する
ヘーゲル マルクス両者の描く「疎外」の像からゆがみをとりされば ふたたび現代の私たちの生きる営みをヴィヴィッドにあらわす概念たり得るとかんがえるのが吉本隆明氏です 吉本氏のかんがえで注目すべきところは 彼がゆがみのない「疎外」の像を描きだすために基軸を設けることです
「生理体としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域の構造は 時間性によって(時間化の度合いによって)抽出することができ 現実的な環界との関係としての人間の存在から疎外されたものとみられる心的領域の構造は 空間性(空間化の度合い)によって抽出することができる」吉本隆明全著作集10 「心的現象論序説」珪草書房1973
基軸が導入された吉本氏の「純粋疎外」は 私たちの精神の営みの全容が、 古典的な理性、悟性などの区分けによらず、抽象化と空間化の度合いの微細な階調をもつ像としてとらえ得ることを示しています。
私たちが同様の姿勢で現在の「疎外」の表現としての芸術表現をとらえれば 作家の営為をとりまく現実的な要素や 表現のもつさまざまな要素を切り捨てることなく 作家が世界をとらえる概念の度合いをいかにあげていった微視的な像を得ることができるはずです
芸術と科学・技術
芸術と同様 精神の観念領域と現実の領域の双方に深く関わっているのが科学・技術です
科学・技術と芸術は 古典時代のルネッサンスまで まだ双方の領域が重なり平行してありました 例えば ダ.ビンチにみられるように しかし その後の世界の進展への貢献は 科学・技術の独り舞台です 芸術や哲学は 科学・技術のあとを追うしかありませんでした
近代以降の芸術は 世界をリードする科学・技術からの「疎外」を打ち消そうとする営為としての側面を持ちます 近代の芸術は科学・技術の圧倒的な成果に再び個の感覚で対抗するという分の悪い戦いとしてあったといえます
現代芸術の登場
20世紀のはじめ いち早く現代芸術の営みを展開した作家の一人がデュシャンです
近代絵画が個の感覚がとらえた世界の表現に止まったのに対し 彼は 知の営為によって時代の「疎外」状況をより高次に概念化してとらえようとします 彼は孤高のうちに先行して現代芸術の地平に立ちました デュシャンの営みが広く注目を集めるのが ジョーンズ ラウシェンバーグがネオダダとして登場する50年代から60年代にかけてです 戦後 40年代の後半になされたポロックの芸術表現によって「絵画」はいったん終わりを迎えます
ポロックの表現が古典 近代と続いてきた古典的な芸術の終着地点であり 同時に 現代芸術の始まりとみられます
先に 古典、近代 現代の芸術表現はそれぞれ位相を異にした 表現概念の全く違う領域だと述べました ポロックの表現が位相の違う近代と現代を不連続につなぐ境目にあたります ポロックによる近代と現代の境界をなす「絵画の終焉」(と同時に)「絵画の達成」は重要です その重要性はいくら強調しても強調しすぎることはないでしょう
それは ポロックの「絵画」が果たす近代とを現代の境界域をとらえ 現代芸術と近代の異なる位相をみない限り 現代芸術の作家たちが繰り広げる時代に対する戦いの姿が浮かび上がってこないからです
ポロックによって 極限にまで高められた「絵画」の表現性の先に広がっていたのは 事物の地平でした 以後 作家に残された仕事は 直面した物質世界の地平で 成就してしまった(失われた)「芸術」の意味をふたたび問うことです つまり ポロック以後 現代芸術は 概念と事物の関係を問い直し 新たな関係をさぐる位相に移ったと考えられます
現代都市の記号のシステム
現代の先進社会の特徴は、生産構造とマス・メディアのうえに、情報・イメージの全域を統御する上部構造が発生することです
これをここでは <現代都市の記号システム> あるいは単に <記号システム>と呼びます 今や
私たちの日常はこのシステムに統御された情報・イメージの記号にすっぽり包み込まれています その状況は<記号システムによる疎外>ということができます
そこからみれば 現代の芸術表現は <記号システムによる疎外>の表現です あるいは より直裁に <記号による疎外>の表現ともいえるでしょう
なぜ今 芸術(アート)か今 進展する科学・技術が 私たちのすべての問題を解決してくれそうにも思えますが はたしてそうでしょうか?
例えば 私たちが高性能の電化機器や乗用車に囲まれた満足すべき生活を手に入れたとしても それらは私たちの心 精神を満たしきることはないはずです それは 私たちの精神が 科学・技術のもたらした成果を受けながらも その状態さえも「疎外」としてとらえるからです
さらにいえば 現実の事象を追究する科学・技術の射程は私たちの精神の「疎外」に届ききることはないはずです
私たちは何に満足を感じ 生を紡ぐのでしょうか
日々のささやかな充足 仕事 家庭生活 食事や会話 知人とのちょっとしたつきあい.........
それらは私たちを支えてくれます それだけでしょうか?
それら日常の時間とは違うもの 芸術表現が新たな世界がそのあり方をかいま見せた一瞬
自分の生と世界が重なる瞬間
鑑賞 制作に関わらず そのような時間によって 私たちの「疎外」は 深い精神の満足のうちに解消するのではないでしょうか?
芸術表現は私たちの「疎外」の解消をめざす無償の営みのひとつだといえます そのようなの芸術表現のあり方を探りたいというのがここでの私の考えです