ピエト・モンドリアン
「ブロード・ウェイ・ブギ・ウギ」
オランダでもパリでも彼の抽象画は売れなかった アメリカのキャサリン・ドライアーが初めて彼の抽象画を買ってくれたのは 彼が54歳の時だった ふだん モンドリアンは生活のために花の絵を描かねばならなかった 彼は花の絵を憎悪し その背後にある自然に縛られた芸術を憎悪した 晩年ニューヨークに渡ったモンドリアンは そこに理想の地を見出す
Piet Mondrian 1872-1944
1872 オランダ、アメルスフォルトに生まれる
父は厳格なカルヴァン派 小学校の校長 画家の叔父に絵の手ほどき受ける
1909 神智学協会に入会
1911-14 39歳 パリ滞在 フォービスムに刺激される
1915ー6 パトロンになる神智学者スレイペルと知り合う
1917 抽象画グループ、「ディ・スティル」に参加
1926 キャサリン・ドライヤーが初めて彼の抽象画を買う
1938ー9 戦火を避けロンドンに移住
1940 戦火いよいよ激しく ニューヨークに移住
1942 70歳 初の個展
1944 肺炎で死亡
モンドリアンのスタジオを飾る
唯一の花 それは造花だった
ブロード・ウェイ・ブギ・ウギ 1943-4
黒の垂直と水平の線 三原色と白黒 灰色
これだけが モンドリアンが見つけ出した 世界の本質をあらわす要素 です
モンドリアンに先行して 抽象化の考え方 を展開していたのは キュービズムです
モンドリアンには キュービズムのとらえた世界は 物質の中心になるはずの 精神 が欠けているようにみえました
彼は 自らの見出した 物質と精神を結ぶ基本要素 を使った 厳密な構成こそ
キュービズムにあらわされた ばらばらに崩れた近代の世界観 を超えて 再び 世界を統一的に表現するものだ と信じていました
「BroadwayBoogy-Woogy」1942-43 127×127cm
しかし ニューヨークで描かれたこの「ブローウェイ・ブギウギ」を見ると その作風は 少し様子を異にしています
先ず 彼が基本要素としてきた 黒の格子状の直線が 姿を消しています
そして さらにはそれまでの 厳格で禁欲的な構成 のイメージは 全く陰をひそめ
代わって ニューヨークのヴィヴィッドな熱気に感応した 楽しげで明るい画面 がひろがっています
モンドリアンは この作品を制作する時点で 彼の造形 に負わせていた 厳格な意味付け を捨て去り
それを超えた 自由で軽快な 制作の楽しみ を選んだに違いありません
そのために この絵は 抽象画でありながら 上空から見た市街 縦横に結ぶ道路 行き交う車 建物を連想させます
側面図としてみれば ビルの内部を図式化 したようにも見えます
彼の共感を呼び かたくなな造形主義 を変化させたのは 現代都市ニューヨーク の肯定的なエネルギーです
モンドリアンは この都市の自由と熱気こそ あらたな時代の姿そのものだと 確信します
ここニューヨークでは 本来異質なはずの黒人音楽も 良いものは良い として 取り入れられ 人気を博しています
アトリエには 邪魔になる事物をいっさい置かず 独身を通す律儀なモンドリアンは 意外にも そのジャズとダンスに熱中します
彼のアトリエに 抽象画を見に訪れた 前衛美術の収集家ペギー・グッゲンハイムは ダンスに興じる彼の若々しさに驚いています
一九四〇年から最後の四年間 モンドリアンはこの現代都市の自由と熱気に呼応して 彼の抽象画を追究することになります
都市こそが表現の規範
「今日の教養ある人々は、しだいに 自然から離れ その生活は ますます抽象的になりつ つある」
「真の芸術家は 大都市を 抽象的な生活の具体化 とみなす それは 自然よりも親しく
よりおおきな美観 を彼に与える (中略)
建築における 面や線の均衡 とリズムは 気まぐれな自然よりも 芸術家に 多くのことを もたらす」ピエト・モンドリアン
「デ・スティル」誌の創刊号1947 によせたモンドリアンの文より
十九世紀印象派をはじめとして ゴッホやセザンヌら 近代芸術家は 自然に表現の源 を求めました
ところが モンドリアンは 現代において 芸術は 都市のあり方を手本にして成立するのだ と主張します
モンドリアンは 自然を再現する従来の近代絵画を 「悲劇的な表現」 と呼びます
現実の自然は 偶然に支配され 混沌とした状態 にある
それゆえ 本質から遠く その外観を再現しようとする 近代の絵画は 「悲劇の表現」 と呼ぶにふさわしい というのです
そして さらに 彼は 現代においては ニューヨークのような現代都市こそが 自然に代わる 表現の源泉だ と主張します
モンドリアンが 表現の源泉を 自然から人口の都市空間 に変更することは 近代と二十世紀現代の表現領域の位相を分ける意味で重要です
本来 近代の表現に属する 彼の抽象画を ここで最初に取りあげるのは その主張によっています
モンドリアンのように 熱く肯定的にとらえるかどうかは別にして 現代の作家は 好むと好まざるにかかわらず 自然を<疎外>して生まれた 都市空間 その世界観 に対して表現を考えざるを得ないのです
晩年のニューヨーク入り
モンドリアンの表現が ようやく注目されるよになったのは 彼が最晩年をむかえてからです
一九四〇年 ニューヨークに渡り 二年後 モンドリアンの初の個展が開かれた時には 彼は 七〇歳をむかえています
さて 若きモンドリアンが故郷オランダで本格的に画業を始めたのは ニューヨーク時代をはるか半世紀以上さかのぼる 一九世紀の終わりです
時を経て 二〇世紀始め モンドリアンは まだ 田園都市の自然にどっぷりと身を浸し 抽象的な風景を描いています
彼は オランダでは 前衛的画家としてあるものの 当時の近代芸術の進展からみれば 周回遅れ とでもいうほかない はるか後方の位置にありました
一九一一年 三九歳のモンドリアンに 決定的な衝撃を与えたのは オランダに紹介された キュービズムです
キュービズムの前衛的な表現 にふれ 自らの後進性に愕然としたモンドリアンは 故国での「前衛画家」の実績を捨て パリに出ます
しかし 彼のパリ入りのタイミングは キュービズムの波に乗るには いささか遅すぎました キュービズムのグループに属する機会 を逸した彼は キュービズムを超えた 独自の抽象表現をめざします
モンドリアンは第一次大戦の間を除き パリで活動します
しかし その理知的な理論と作風は ロマン主義が底流にある フランスパリ画壇からは 冷遇されつづけます
モンドリアンの画業と人生は そのまま ヨーロッパで終わるかにみえましたが 一九四〇年 すでに高齢の彼を アメリカに向かわせるのは ふふたたびヨーロッパに広がる戦火です
モンドリアンと同じように 多くの文化人 芸術家は アメリカに亡命し 二〇世紀の 科学 文化 芸術 の中心はアメリカに移っていきます
戦争による ヨーロッパ近代秩序の崩壊 を味わったモンドリアンにとっては 現代都市ニューヨークは別天地です
そこでは 科学・技術による人工が 自然と人々の生活をコントロールし その壮大な都市空間は なおもエネルギッシュに増殖をつづけています
ニューヨークの壮大な都市空間と そこに集う人々のエネルギー を目のあたりにしたモンドリアンは 都市こそ表現の源泉だ とする先のかんがえ をさらに強固なものとします
世界観の移り変わり
モンドリアンの 現代の芸術表現に至ろうとする営み をつぶさにみる前に
ここで それぞれの時代の芸術表現が成立してきた位相 を整理してみます
私たちは 各時代の 芸術の区分けを アカデミックに厳密化しよう というのではなく
それぞれの時代の 芸術のイメージのあり方 芸術表現の構造の違い をより鮮明化することをかんがえます
古典期の世界観
まず 古典時代においては 哲学が世界の構造を究明し 言語化していきます
哲学は 神の概念と結びつき 哲学・神学 として 天空に位置する神秘的な力 神のイメージが支配する 古典時代の世界観をかたちづくります
古典芸術は その世界観を 音 言語 事物などを借りて 具体的にあらわす役割を担います
ルネッサンス期の世界観
哲学・神学は 人間の精神と事物のあり方を 神の力 によって説明します
それに対して その後 興隆する 科学・技術は 世界を あくまで事物の構造として 実証し 解明していきます
科学・技術は 自ら 仮説をたて その仮説を検証すること をくりかえし しだいに現実的な世界観をうちたてます
科学・技術の世界観が まだ 哲学・神学の古典的世界観と 矛盾せずにかさなり合い その成果を開花させるのが ルネッサンス期です
ダ・ビンチ にみるように 科学・技術と芸術は 肩を並べ 古典期の世界観 を具体化させます
しかし 十六世紀以降 世界の究明は 実証の手段を持つ 科学・技術の一人舞台です
ガリレイが 自身の制作による 高精度の望遠鏡によって 天体の観測をかさね 地動説に至ったように 科学・技術は さまざまな機器や機械を生みだし 知覚の限界と想像にしばられていた 古典期の世界観を打ち破り 近代の世界観を広げていきます
科学の要素還元の手法
一七世紀 ニュートンの物理学は 天体の運行を事物の運動として解明します
それによれば 巨大な惑星も 地上の微小な石くれも 同じ運動法則のもとに存在しています彼の 物理学をはじめとする知の展開は 近代の世界観を象徴する位置にあります
近代から現代においては 古典時代の哲学・神学に代わり 科学・技術が時代の世界観を担います
近代以降の芸術は 科学・技術の世界観から<疎外>される位置にあります
モンドリアンが 現代の芸術の新たな源泉を 人工の都市 と見たのは 都市の秩序を 科学・技術の世界観を象徴するものと見たからです
近代芸術は科学・技術の圧倒的な勝利に 対して この感覚で対応し 本来の自然に再び至ろうという分の悪い戦いです
近代芸術においては 表現の営みを この感覚に限定したことが その限界をもたらしています
それに対して 現代芸術は 時代による<疎外>を知の営みよって より高次に概念化してとらえ 科学・技術の限界をも超えた あらあな世界間の可能性 を示そうとするものです
私たちは それぞれの時代の このような位相の違い をふまえ 近代を超え 現代に至ろうとする モンドリアンの営み をみることにします
ニュートンの物理学にみるように 近代科学・技術の基本的方法は 自然の 複雑にみえる はたらき 現象を もともとの要素に戻して 解明する 要素還元の方法です
近代の画家たちは 目覚ましい変化をもたらした この科学・技術の方法を 意識しないわけにはいきませんでした
私たちの言い方でいえば <科学・技術からの疎外>です
ある者はそれを取り入れ また ある者は反発し 科学・技術の世界観を超える 新たな表現をめざしたのです
十九世紀の 印象派の画家たちは 当時の色彩理論や光学理論を援用し 自然の対象を 純度の高い色彩に分解してとらえます
二十世はじめ その後をうけついだ セザンヌは 印象派が弱めてしまった 対象のかたちを 強固に表現すること をめざし 対象を 円錐 球体 など の基本形態に還元してとらえます
セザンヌのかんがえを さらにすすめるのが モンドリアンを触発することになる キュービズムの画家たちです
この頃には 近代の世界観に対して 相対的な視点をとる 現代の世界観が登場し近代の世界観は再検討を強いられます
キュービズムの画家たちは 対象の空間を 立方体 直方体などの 空間の基本形態に還元し 危うく揺らぎだした近代の空間 をなおも強固にとらえなおすことをめざします
しかし モンドリアンにすれば キュービズムは まだ自然の対象を再現すること にとらわれ 感覚の世界 に縛られた表現です
モンモンドリアンは 実際に 風景を写生する中で 対象の描写から 本質的でないとかんがえられる要素 を次々に省いていきます
「しょうが坪のある静物」1911-2 や「花咲くリンゴの木」1912 に至る習作群がそれです
同じ対象にむかいながら 次の習作では さらに不要な部分を省き 次の習作 というふにすすめ 彼は 対象を 最後まで残るどうしても消しきれない要素 にまで追いつめます
「花咲くリンゴの木」1912 では 木は 徐々に再現的な要素をそぎ落とされ 最後には かろうじて木が想像される 線と色面の構成 に至っています
「赤い木」1908 70×99cm 「灰色の木」1912 78.5×107.5cm「花咲くりんごの木」1912 78×106cm
しかし 実制作による還元は そこまでが限度です
モンドリアンはキュービズムと同様の限界にゆきあたっています
彼は そこからさらに歩をすすめ 還元の方法を 精神と物質の関係に適用し 物質ばかりに目を奪われて破綻した 近代の合理主義的な見方 をのりこえようとします
彼は 対象の再現的要素を削り落とす作業から より観念的な還元 に歩を進め 事物とそれに向かう彼(精神)の「関係」をあらわす二つの対立的要素を見出します
その一つは水平と垂直の線です
しかし、モンドリアンの取った要素還元の方法は 科学のそれというよりは 宗教のインスピレーション に近いものでした
モンドリアンは 自然に向かうなかで 彼の前に広がる 地平線 水平線 と天空と彼を結ぶ 垂直線 に注目し これこそ本質的要素だ と確信します
もう一つの対立要素は 原色と無彩色の対比です
原色は 物質が存在する状態をあらわし 灰色から黒の無彩色は物質が存在しない空白 をあらわす
これだけのシンプルな基本要素から成るのがモンドリアンが「新造形主義」と名づける 彼の 純粋な表現のため の造形システムです
精神と物質の基本要素
みてきたように モンドリアンは要素還元の方法を精神と物質の関係に適用し
物質にばかり目を奪われ破綻した西欧の近代を乗り越えようとかんがえました
彼は 新造型主義についてまとめたノート に次のように書いています
<今までのあらゆる芸術は 自然に追随する造形だった
自然のあり方を手本とし 自然の形や色の構成 によって 間接的に本質をあらわす
しかなかったのだ
私たちの時代になって 初めて 自然に頼らない 本質的要素だけの造形に至った
私たちの抽象絵画は 本質的要素の構成だから その構成自体が即 世界の本質を
表現することであり 世界のイメージそのものの造形なのだ>
一九二六年 「新造形主義」について 最終的にまとめたノートの中で 「新造形主義と形態」という項を設け その意義を 次のように述べています
「自然の中では 関係は 形態や色彩 あるいはその属性 としてあらわれる物質によって
隠蔽されている
この自然形態模倣造形(モルフォプラスティズム)は あらゆる芸術が これまで追髄し てきたものである
こうして 過去において 芸術は<自然に従って>いた
絵画は われわれの時代において 関係のみによる造形 に到達するまでは 幾世紀ものあ いだ 自然形態と 自然色 によって構成してきたが
今日では 構成自体が造形的表現であり イメージである」
第一次大戦のあいだ 故国にもどったモンドリアンは ディスティル誌に執筆し「新造形理論」を練りあげます
その造形理論によって ついに近代の限界を離脱した とかんがえるモンドリアンは
大戦が終わるやいなや すぐさまパリにとってかえし パリ画壇に 一大センセーション をまきおこすべく 一九二〇年 「ネオ・プラスティズム」宣言を出版します
しかし 論の発表や それに続くいて開いた「ディ・スティル」展は 彼の期待に反し 何の反応も生まずにおわります
後にバウ・ハウスが 彼の論をとりあげ 蔵書に加えたことが 唯一の光明でした
カントの二元論
モンドリアンの「新造型主義」を背後から支えているのは ヨーロッパの物質と精神の関係から 世界の成り立ち をかんがえる二元論 です
一八世紀末 二元論を展開したのがカントです
カントのかんがえでは 世界の本質をになうのは 英知界と呼ばれる精神の世界です
私たち人間は 身体的存在としては 事物の因果にしばられ 感覚を通して世界の物質的側面のみを知ることができる 感覚界にあります
カントは 私たちが世界の理解を深めるには まず 経験を超えた世界を 信仰の対象とすることをやめ 感覚による世界とらえ方と手を切り
精神の中心である理性を純化し 精神を 感覚に左右されない実践理性 として働かせる以外にないと主張しました
カントの主張に立てば この実践理性の営みの成果のひとつが 近代の科学・技術の進化とみることができます
ただし その視点は 事物の機能の解明と追究に限定されています
モンドリアンの造形を支える宗教的イメージ
モンドリアンが 自然の対象の再現を切りつめ 抽象絵画にいたる営みは 感覚を切り捨て 実践理性を はたらかせることに当たります
しかし モンドリアンの造形システムは カントが退けたはずの 宗教的な世界観に支えられています
モンドリアンは 厳格なオランダのプロテスタント カルヴァン派の教えを受けて育ちます
その教えでは 感覚を刺激するものは すべて欲望を呼びさます不浄のものとされ 宗教画さえも 感覚に訴えるよからぬものとして退けられています
モンドリアンは 厳格な父の像が重なるカルヴァン派の教えに反発し 絵画の道を選びました
ところが 具体的なかたちを捨ててゆく 彼の自然の追究は 彼が反発した宗教的な教え にそのまま裏打ちされています
モンドリアンが 世界をあらわす基本的な要素 だとする 水平垂直の線は カルヴァン派で 唯一 信仰の象徴とされてきた 十字架のイメージを含んでいます
それは 深いところで 彼を満足させたに違いありません
成人した彼は さらに宗教的世界観への傾斜を強め 宗教的な二元論である 神智学を信奉します
それによれば 物質の世界を秩序立てている 英知の源は 神であって 世界の本質を理解するために 人は神の英知を感じるように 実践を積まねばならない とされています
モンドリアンの「新造形主義」は カントのそれでなく 古典的な世界観である 神智学を基盤に 展開されています
モンドリアンが 近代を超えるために援用した 天球を頂点として 放射状に広がる世界のイメージは 実際には 神を天空に仰ぎ その力が世界を支配する 古典時代の世界観にほかなりません
近代を超え 二〇世紀の新たな表現位相 を求めるモンドリアンは 造形理論の強化 をはかりますが 皮肉なことに 彼は さらに古典の世界観に引き寄せられていきます
世界を より体系立てて説明しようとする モンドリアンは 彼の基本要素に 観念的な意味を結びつけます
彼は 水平線を 女性=時間=ダイナミック=メロディ あらわす要素とし
垂直線には 男性=空間=静的=ハーモニー を対応させます
さらに 三原色は 事物の存在 灰色から黒の無彩色は 空白をあらわす要素とします
しかし M・フーコーが 「言葉と物」で指摘するように 事物のかたちから類推した意味づけ によって世界の体系をつくりあげることは かつて古典時代において 人々が世界観をかたちづくった方法です
ヨーロッパ近代の破綻とゆきづまりを 乗り越えることをめざした モンドリアンの造形理論は 表層では 自然の再現を超えた 記号的な表現形式 を手にするものの その本質は 疑科学的な還元によって 復活させた 古典時代の神秘主義的な世界観 に支えられています
「赤青黄のコンポジション」1930 福岡シティバンク
「灰色のコンポジション」1935 The Art Institute of Chicago
モンドリアンは 先のノートにさらに次のように書きます
「物質として 知られるものの内在化 そして 精神として 知られるものの外在化 によって
ー今までは この二つのものは まったく別のものとしてきりはなされてきたのだ!
—物心は 合一されたものとなる (中略)
対象的で 中性化された対立 によって 均衡は 特定の個性としての 個別性 を消去し
合一的な現実 としての未来社会を創造する」
「モンドリアン」赤根和生 美術出版社 1948
モンドリアンは 自然の物質的世界から 抽出した基本要素に 世界の観念的な意味 を結びつけます
その関連づけは 彼の造形行為を 物質を 精神に高めようとする 精神の内在化 また逆に 精神を 物質にあらわそうとする 精神の外在化の営み をめざしたものです
彼の制作は 精神と物質の合一 がなされる行為 にまで まつりあげられることになります
つまり 現実には 平面上の 色彩の配置 色面のバランス をかんがえる 彼の造形表現は
同時に 重々しくも 世界そのものの対立要素 男性的要素と女性的要素 時間と空間 等々を 調和させ「中性化」させる行為 をなしていることになります
ここには あたかも中世の錬金術師のように 世界と自らの行為とを直接 関係づけようと格闘する 画家の姿があります
モンドリアンは 世界を抽象化してとらえようとする 芸術の営みと 事物の機能を追究する 都市の活動 を直結し そこから すぐさま 精神と物質の合一 を導いています
しかし モンドリアンのかんがえに反して 都市空間の活動は 私たちに至便さをを提供すると同時に 私たちの生きる営みを<疎外>する関係にあります
とすれば 私たちが 生きる営みを続ける限り「合一的現実」はあり得ないはずです
モンドリアンが その造形理論によって 物質と精神が分断された 近代世界観の矛盾 を克服し 一挙に 物質と精神の合一に至った とするのはあまりに性急な結論です
彼は 今少し 精神と物質の分裂する 時代の「悲劇」に 耐えるべきだったのです
モンドリアンの表現は都市の疎外に届かなかった
モンドリアンは憤慨するでしょうが 彼が表現に負わせてきた 神秘主義的な意味づけは 現代芸術の 概念的な位相からは 有効とはいえません
重要なのは 彼が ニューヨーク時代 はからずも 現代の記号的現実に踏み込んでいることです
つまり モンドリアンの造形システムから 神秘主義的な意味づけを除けば 彼の表現は そのまま 都市の機能を追究するデザイン表現です
そこでは 水平垂直の線や平坦な色面などが基本的要素であるのは いわば 当然のことです
モンドリアンの造形システム の基本要素は もし作家(デザイナー)が必然を感じれば
差し替えが可能で さまざまなバリエーションが想定できます
たとえば
水平垂直の線と三原色無彩色の代わりに <円と正方形 五色の色彩を用いて 世界の本質を表現する>というように
直線と円正方形などの基本形態によるデザイン 平面構成の作例
別冊アトリエ 基礎デザイン 「平面構成の練習」1977 より
私たちがそのようなかんがえを抱くのは 彼のニューヨーク時代の作品 「ブローウェイ・ブギウギ」1942-43 などにおいて 彼自身が すでに自身の造形理論を超えた 自由度を獲得しているからです
都市こそ表現の源泉だとするモンドリアンは 二〇世紀の世界の中心として活力を誇示する ニューヨークを理想郷とみて その活力に呼応する デザイン的表現を展開しました
しかし モンドリアンの見方は 現代都市の明るく肯定的な側面に限られています
自然を嫌悪し 現代都市を賛美するモンドリアンの視線は 機能や効率を追究する都市の暗部には届いていません
もっとも ヨーロッパに広がる戦火を逃れてアメリカに渡ったモンドリアンには 世界の守護神としてはたらくアメリカを批判する余裕はなかったかもしれません
一九四四年 ジャズとダンスを好み 必要物以外の事物をいっさい置かず 電話もないアトリエで 制作を続けたモンドリアンは 悪性の風邪をこじらせ 第二次大戦の終戦を待たずに 世を去ります
未完となった「ビクトリー・ブギウギ」が置かれたモンドリアンのアトリエ
奇しくも この年 近代抽象画のもう一方の旗頭 カンディンスキーも亡くなります
ポロックらによって 現代都市の<疎外>に 焦点をあてた 現代の芸術表現が 繰りひろげられるてゆくのは
近代抽象画の両雄が世を去り 第二次大戦もようやく終わりを告げた 四〇年代も後半のことです
古典期 知はまず哲学・(神学)としてあらわれる
ダ・ビンチは一点透視図法を使い 現実のイメージと神の絶対的な世界を重ね合わせて表現する
アイザック・ニュートンIssac Newton
11642-1727
コペルニクス没後100年後
ガリレイの没年生まれ
ニュートンは ガリレイの望遠鏡の収差を改良し反射望遠鏡を制作する
高度な技術を兼ね備えた 近代を象徴する科学者 世界を等質な空間 時間の広がり ととらえるその物理学は 近代の世界観の基礎をなす
万有引力を発見し すべての物質の運動をF=mv=mx と表記
その記述のための微積学も発明する 他に 光を粒子と見る光学理論 創始
著書「自然鉄悪の数学的諸原理」1687(プリンキピア)
ニュートン制作の望遠鏡
イマニエル・カント
Immanuel Kant
1724-1804
18世紀末に展開されたカントの二元論は 科学的認識によって進展する近代世界の行方を指し示す それによると私たちは 感覚を通して知る 限定された世界 感覚界にあり 本当の世界を知ることはできない
世界の本質を知るには 感覚に左右されないよう 精神を純化し 実践理性として働かさねばならない それには 近代の科学的認識の追究 道徳的な良心の追究 美の成り立ちの追究が含まれる
著書 「純粋理性批判」1781「実践理性批判」1787-88