アメリカ現代芸術は何を残したか
まえがき
現代芸術とは
どのような表現のか?
現代芸術の作家たちは、なぜ難解な表現をくりひろげるのか?
現代芸術の作家たちは、現代という時代をどうとらえているのか?
彼らは、今、どこにむかおうとしているのか?
現代芸術と呼ばれる現代アートの領域がもはや古典的な領域となりつつある現在においても これらの素朴な疑問は手がつけられることなくそのまま残されています
私たちが身を置く 現在の茫漠としてつかまえどころのない様相 それに少しでもかたちを与え これらの素朴な問いに自分なりの答えを見い出したいというのが この論の意図するところです
ここに展開される現代芸術とは 絵画(近代)からの覚醒以後 現代の地平でさらなる覚醒を求める一群の表現を指しています それらの表現を他の時代 他の領域の表現とは異なる位相に展開された表現として区別し 特に 芸術表現(アート)と呼ぶことにします
現代の記号との関係
今 私たちの日常は 記号としての事物 情報・イメージでとりかこまれてあります
アメリカ現代芸術の作家たちは 現代特有のこの状況を<記号からの疎外>としてとらえ 彼らの芸術表現を展開しました
現代では イメージ・情報をつくりだす仕事は マス・メディアの領域に移り 絵画がイメージを紡ぐ作業はすでにリアリティを失っています このことをいちはやく感じとったポロックは 近代までの絵画に必須の要素であるイメージを描くことを捨てさり まったく別の現代の<絵画>を生みだします その意味では アメリカの現代美術の難解さはポロックがイメージを描くことを捨てさることから始まっているといえます
ポロックが現代芸術の作家である理由は、彼が大胆にも絵画の枠組み自体の変更をめざしたことにあります。
近代の領域にある画家ピカソは、ポロック以上に斬新に現代的な絵画表現の工夫をかさねますが、イメージを描く絵画の枠組み自体を捨てさろうとはしていません。 彼の難解さは、いわばまだ絵画の枠組みのなかにおさまっています(したがってピカソの表現は、ここでいう現代芸術には属していません)
現代芸術の難解さは 作家が表現の枠組自体がこうむる<疎外>をもその営みにくりこむことによって その芸術表現に概念的な局面が加わるところから生まれています
表現の枠自体に手を加えることを最初に試みたのがデュシャンです
今世紀初め デュシャンは まだイメージを描くことだった芸術の表現に 現実の事物 レディ・メイドをもちこみ はやくも現代芸術の一歩をふみだしています 彼の思索をつみかさねた実験的な表現は 後の芸術表現の展開に大きな影響を与えることになります
疎外の概念
ところで この論では すでにふみこんでいる<疎外>の概念が重要な位置を占めています
私たちの生きる営みを<疎外>からとらえれば 私たちの精神と現実世界との間で相互に変化を強いる動的構造を描きだすことができます ここでは <疎外>が 私たちが自身の本質に近づこうとする精神のうちにおいてバネのような役割を果たしていることを指摘するにとどめます
芸術表現は かならず作家と表現領域自体がこうむる現実からの<疎外>を映しだします
むろん 作家の<疎外>の認識は固定的な結果を生むことにはならず 芸術表現は作家それぞれの思索の違いによって さまざまな方向に展開されます
たとえば ポロックとウォーホルの芸術表現を比べてみると 両者は同じ記号に対する<疎外>に根ざしながらまったく様相を異にしています
ポロックの芸術表現は 記号的現実に対する敵意と憎悪に満ちています 一方 ウォーホルのそれは ポロックの否定的態度とは反対に 情報・イメージの記号を徹底して肯定的にあつかうことによって 記号的現実に対する批判をうかびあがらせています
現在 またたくまに普及したインターネットにみるように 事物の記号化の状況はさらに進展し 現実と記号が錯綜する都市の空間を生みだしています <記号からの疎外>を表現するのが現代芸術だとすると そこには現実と記号が錯綜を深めることからの<疎外>の認識がくりこまれてゆくことになるはずです
たとえば シュナーベルの作品にみる皿と絵画のイメージが衝突するかのような いかにも唐突な事物とイメージの組み合わせは 現在の記号と現実の深まる錯綜を物語っています
またホルツァーら女性作家が 記号の形式をそのまま自らの表現形式としてしまう芸術表現は 強化されてゆく記号の表出力にのりながら 記号の強化の裏で私たちの現実が危機に瀕していることを訴えています
このようにさまざまに展開される作家たちの芸術表現をたどれば 逆にそこから 時代の<疎外>の全容がうかびあがることにもなります
以上述べてきたような観点から 冒頭にあげた素朴な疑問をさらに突き詰めていくことにします