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ジャスパー・ジョーンズ        

    <見ること>の意味

都市の事物には 必ず記号としての意味がこめられている
ジョーンズは大胆にも その記号の最上位に位置する国旗を絵画のモチーフに選ぶ
国旗を塗りこめるために使われた 抽象表現主義の芸術表現は
都市の最上位の記号と その強度を競わされることになる 
ジョーンズの「旗」を塗りこめる手つきが いかにも真剣で 芸術を扱う手つきと同じであるため
「旗」を見る人々は それが芸術だと認識してしまう 
​ジョーンズは 都市の記号に あまりに従順な 人々の<見る行為>を笑いとばしている

 

 

Jasper Johns1977頃 1930-

1930ジョージア州 オーガスタ生まれ

1949 19歳 2年間軍隊に入る仙台に6カ月駐屯

1952 22歳ニューヨークハンター・カレッジに入るが2日で退学

1954 24歳ラウシェンバーグと知り合いウインドーディスプレイで生活費稼ぐ

1958 28歳 レオ・カステリ画廊で個展

1959 29歳 デュシャンを知る

1973 43歳 クロスハッチングを用いた制作始める

 

 

 

 


「旗」1954

ジョーンズは 都市の事物には必ず記号としての意味がこめられていることに注目しました

そこで彼は 大胆にも アメリカ現代都市のなかで最上位に位置する国旗をモチーフに選びました 国旗は誰が見ても一目でそれと分かる記号です 

国旗の記号としての強度は 国家という共同社会の価値観の強度 と結びついています

彼は社会の価値観の強度に挑むかのように カンバスに写し取った旗のデザインに びっしりと絵具や蜜蝋を塗りこめます   

ジョーンズの前世代にあたり 当時のアートシーンを支配していた 抽象表現主義の画家たちの芸術は 国旗を塗りこめるために使われ 都市の最上位の記号と その強度を競わされています 

それは ジョーンズによって仕組まれた 愉快で真剣なミス・マッチです

彼は芸術を扱う手つきで いかにも真剣に「旗」の記号を扱います

その真剣な手つきだけが 芸術と「旗」をつないでいます

ジョーンズが このミス・マッチを仕組むのは あまりにも都市の記号に従順な 私たちの日常の<見る>行為を 批判し笑いとばすためです

なぜなら 私たちがその真剣な手つきを 記号に従順な<見る>のレベルから <見る>にちがいなく

の結果 「旗」を直ちに「旗」と認めながら 芸術としても<見>てしまうことが確実だったからです  真剣な手つきで塗られる蜜蝋に埋めつくされた「旗」の背後には  ジョーンズの高笑いが響いています


大笑いジョーンズ
「Inside the art world」
Barbaralee Diamonstein,1993,
Rizzoli International Publications

<絵画>と<旗>を一矢で射貫く

さて ジョーンズ自身は「旗」の制作について

「旗をいかに自己表現から遠ざけるという作業の課程である」

 

と述べています

しかし この言葉は 「旗」が近代芸術の自己表現とは異なり 現代芸術の概念的な位相にあることを強調するためのもののようです

都市の記号である「旗」はもともと自己表現から遠く 実際のジョーンズの制作意図はその言葉よりもう少し記号的現実にふみこんだところにありそうです

ジョーンズがめざしているのは 記号的現実に対して 批判する力をもたない抽象表現主義の<絵画>と 私たちの<見方>を固定してしまう当の記号的現実そのものを標的にすえ

双方を一矢で射貫くような芸術表現をなすことです 

 ジョーンズかんがえだしたミス・マッチの手法は

なおも絶対的な表現とされる<絵画>に 自己表現からもっとも遠い 都市の最上位にひるがえる

記号「旗」をのみこませ(対峙させ)

記号と絵画 双方の仕組みとその限界を あわせて白日のもとにあばきだそうとするものでしょう  

しかも あくまで<絵画>の形式にこだわるジョーンズは その<記号による疎外の表現>を さらなる<絵画>として成立させることをめざしていると思われます

批評家は「旗」に<美>を見る

「固有性の欠如と全面性のおかげで ジョーンズ はこのクールなイメージの外側に感情的な負荷を自由につけ加えることができた」

批評家 リチャード・フランシスの意見は ジョーンズの表現に 目を奪われた 典型的な<見方>を示しているようです

その見解は <ジョーンズは記号をモチーフにしたので 表現主義的な表現を自由にできた>と言うに過ぎないのではないでしょうか 

ジョーンズが後年 「批評家は見る」と題するブロンズ作品を制作するのも フランシス氏をはじめとする批評家たちの言動を皮肉ってのことのように思えます

 

 

 

 

 

 

 

​とはいえ 批評家たちが ジョーンズの表現に<美>の表現を見いだすことには ジョーンズが自身にも責任の一端がありそうです

それは 後でもふれるように ジョーンズがかたくなに 絵画をはじめとする古い位相にある表現形式に固執し それらを捨てないことが響いているかもしれません

ジョーンズは 彼がとらえる 現在的な意味のすべてを その古い形式にこめようとし しだいに 意味の表現から 元の絵画そのものの表現への傾斜 を強めてゆくように見えます

そこには 彼の作品から 作家の意図する 都市の記号による<疎外>の表現が <見>おとされ 

従来の絵画の延長上の表現とみられる余地が多分にありました

あらわになった事物の地平

ジョーンズは 一九五〇年代の中頃 ラウシェンバーグにい続いて 現代のアート・シーンに登場します

二人は 抽象表現主義がたどった無意識の迂回路をとらず 直接 <都市の現実> に目を向けます

その頃すでに 絵画はすでにイメージ表出する力を失い ポロックの表現によってその終着点に至っています

ラウシェンバーグが 現代都市の「高速な現在」にある事物にリアリティを見いだすのに対して 

ジョーンズは 都市の現在を高速化する役割を担わされた <事物の記号性> に注目します 

現代都市では <記号システム>が すべてのイメージ・情報を記号化し 制御しています

ここでは かつての芸術に代わり イメージを生む仕事は マス・メディアが占有しています

現代の<絵画>は イメージを失い 事物としての相をあらわにされた地平にあります

ジョーンズはこの地平において なおも<絵画>を成立させようというのです

この地平において 最初に戦いを挑んだのはポロックです

現代都市では すべての事物が記号として整備され さらなる効率と性能が追求されます

伝統的な絵画の素材である 絵具とカンバスの持つ表出力は 工業用塗料や金属板 プラスチックなどの 均質な強度と比較され たちまちその貧弱さを露呈してしまいます 

この記号的地平にあって <絵画>を存続させるための苦しい抵抗戦が ポロックの抽象表現主義でした 

ポロックは <絵画>からイメ―ジを描くことを自ら捨て

ただ描く行為のみとなった<絵画>こそが 本来の自然を表示するものだ と主張します

彼は<絵画>の唯一の要素 となった<描く行為>によって 精神の強度を表現します

ポロックの精神の表現を支えるのは 逆説的に 画面上に残される絵具などの<事物としての強度>です

ポロックは 絵具にかえて塗料を使い さらに画面に砂やガラス片を混ぜるなど いかに<事物としての強度>をあげるかに腐心します

<精神の強度>を <絵画>即ち<事物の強度>としてあらわそうとする 古典的な表現は ポロックによってぎりぎりの地点にまでつきつめられます

ポロックの激しい抵抗にもかかわらず 彼の<精神イコール事物>表現は 都市の記号の時間の流れにのみこまれていきます

ポロックによる果敢な抵抗の挫折は 古典時代以来の<絵画・芸術>がついに終着点に至ったことを示しています

ジョーンズが直面したのは ポロックによって示された<絵画・芸術>表現の限界点であり 

その<絵画・芸術>をも すぐさま一つの記号として取り込み消費する都市の記号の現実です 

<絵画・芸術>が イメージを奪われ 完全に無力化されてしまった都市の現実にあっては かつての方法は全く用をなしません

​​​​​​​「四つの顔のある標的」1955

 ジョーンズは「私が何をしても 人工的で嘘っぱちにみえるんだ....」

という言葉を残しています

それは 彼が「旗」を発見する以前 新たな芸術表現への突破口を旧来の<絵画・芸術>の方法に求めていた時以来の思いであったに違いないでしょう 

は独学の人と言われていますが かつての芸術の方法をどう展開しても「嘘っぱちに見えてしまう」という認識に至った以上 孤立して新たな視点と方法を探る以外に道はなかったと思われます 

 
記号あやつられる私たちの<見る>行為 

ジョーンズが 焦点をあてるのは 私たちの<見る>行為です 

彼は 私たちの認識を歪める 事物の記号性に 現代の<疎外>をとらえます 
<事物の記号性>は都市の時間の流れ を迅速化します

日常の 私たちの<見る>行為は そのは迅速な流れのなかにあります

例えば 信号を前にして 信号の色彩自体についてじっくり考える人はまれです

私たちに求められるのは 赤青黄色に振り当てられた意味 を受け入れ 示された色によって 素早く行動をとることです

信号に限らず 私たちの日常の<見る>行為は 都市の求める 知覚・判断・行動の 一連のプロセスの一部に組み込まれています 
都市の空間では< 見る行為>は 事物そのものを見るのでなく <事物に負わされた記号>を 素早く読みとることです

都市の迅速な時間の流れは 人々の<思考と行動の パターン化>を促し さらなる効率を求めます 

ジョーンズが見た記号かは置くとして 私たちの身近な街の記号の例を拾ってみていきましょう

ここで脈々と生きているのは 私たちではなく<都市のシステム>の方ではないか?

<人間>は 思考と行動をシステムに制御された< 機械>のような存在で ありはしないか?

ジョーンズは 個として 都市の記号の時間の流れのなかで立ち止まり

記号の裏側に封じこめられているはずの 事物の生の姿 を明らかにし

私たちの<機械化された認識・判断・行動> を浮き彫りにすること をめざします 

ポロックの落胆

ジョーンズが注目したように

私たちの 日常の<見る>行為をたどってゆくと <事物に負わされた記号性>が 浮かび上がってきます

現代都市の<事物に負わされた記号>は <体系化>され 都市は その<体系>を介して 私たちに <迅速な認識・判断・行動>を強いています

今や 芸術も 一つの記号の体系として 都市の記号体系のなかにあります

芸術に割りふられた機能は

人生の希望や悲哀を意味する< 読解可能な記号>として 都市を装飾し 都市の価値を高めることです 
ジョーンズから一世代前にあたるポロックは この<現代都市の記号化の流れ>に 激しく抵抗しまし

ポロックは 芸術表現が あらかじめ意味の定まった<記号として 読解され 位置づけられること>を拒否し

自らの表現を 都市の記号の<最上位>に位置づけます 

何故なら 画家ポロックにとって

芸術表現は あくまで<個の精神の表現>であり それは<都市の記号>のさらに<上部>にあるべきもの とかんがえられたからです

あえて <記号>としてみれば ポロックの<芸術表現>は <精神そのものが事物化>された 究極の記号です

それは 即ち<個の精神>が <事物の体系>を超えて存在すること を意味しています

しかし 都市は 無情にも ポロックの<芸術表現>を 新参の<芸術の一記号>として <都市の記号の体系>のなかに位置づけかえします

一九四三年に ポロックが制作した グッゲンハイム邸の壁画は「高尚な壁紙」と批評され 彼を激怒させ 落胆の淵におとしいれます

ポロックの憤慨と落胆の原因は <現代都市の記号的価値体系>と それを超えた位置に<表現>を置く 彼自身の価値観との落差にあります

裏を返せば ポロックの価値観は 人々に 彼の<芸術表現>に対する絶対的評価を 強要することにもなります 
ジョーンズには 人々の絶対的な評価を求めるポロックは あまりにも無邪気に映りました

多くの人々は 都市の時間に順応し <事物の記号の面>をのみ<見る>ことに あまりにも慣れています

彼らがすぐさま その<見方>を変え 画家の<精神の記号>を理解する地平 に立つとは考えにくいことです

ここで脈々と生きているのは 人間ではなく <都市の記号システム> の方ではないか?

人間は 思考と行動を システムに制御された <機械>のような存在ではないか? 

ジョーンズは 都市の時間の流れの中で立ち止まり <記号>の裏側に封じ込められているはずの <事物の生の姿>を明らかにし

私たちの <機械化>された< 認識・判断・行動> のありようを 浮き彫りにすることをめざします

国旗はただの布きれ

ジョーンズは 現代都市の上位に 国家の象徴として 古色蒼然とひるがえる<国旗 >を絵画の主題とします

ジョーンズが<国旗 > を取り上げるのは 

<国旗 >に <記号と事物自体としてあること> のあいだの 大きな<落差> に注目したことによっています

<国旗はただの布きれではないか!>

<絵画も 同じく 絵具を塗りこめられた布きれにすぎない!>

​南部の閑散とした田舎町に育ち 現代都市の記号空間にとびこんだ ジョーンズには <記号的現実>への憎悪 記号をつきはなして ただの事物として<見る>態度が その基底にあります

彼は <国旗>を塗りこめるために<抽象表現主義の芸術表現の手法>を用いて こってりと絵具やペンキ砂などを塗りこめます

ジョーンズの生み出すこのミスマッチ(ちぐはぐな行為)によって 国旗>と<抽象表現主義の芸術表現の手法>双方は <事物としての側面>があからさまにされます

< 絵画>が 絵具を塗られたカンバスでしかないように<国旗 >は 事物としてみれば <旗のデザインをほど

こされた たんなる布きれ> であるにすぎません

かくして都市の最上位の記号<国旗 >と <抽象表現主義の芸術表現>はその強度を競わされることになります

 
「アメリカの国旗のデザインを使うことで私はずいぶん多くの無駄をしないですんだ なぜなら 私は旗をデザインする必要がなかったからだ 私は同じようなもの 標的などを描きつづけた つまり心が前から知っているものである そのおかげで 私は別のレベルで制作することができた」


ジョーンズが「無駄をしないですんだ」と言うのは

ポロックの表現が <芸術の新種の記号> とみなされたことによって 画家にとっての意義づけを無力化されたのに対し

彼は その範に陥らず <現代都市の記号>のあり方自体 を問うことをめざせたことを指しています 
私たちの 日常の<見る>行為では 私たちは <星条旗>を目にすれば すぐさまそれを<星条旗>と認識し しかるべき行動へと移っていきます

ジョーンズは <国旗>と言う記号の スムーズな働きに介入し 私たちに その<認識の仕方>自体に 目をやることを促します

彼は 都市の記号化によって <定型のシステムとなってしまった見ること> をもう一度 私たちの側に引き戻し 共通概念の側に落ちていってしまう <意味の形成過程>を 再び 私たちの側へ引き寄せようというのです

<都市の記号空間>は 都市の機能を担い 現代の記号群によって<高速な都市の時間の流れ>を 形成しています

それらのうちでは より高機能を求めて 絶えず <解体・増幅(再編)> がくりかえされています​​

​​​<ミス・マッチの手法>どこまで続けるか

<芸術の記号>と<都市の記号>を競わせるジョーンズのやり方を<ミス・マッチの手法>と呼びましょう

都市の最上部にある記号<国旗>を取り上げた彼は 今度は一転して  私たち自身に目を移し

私たちの <考える>行為のツール となっている記号< 数字やアルファベット> をモチーフにします

私たちの思考のツール である記号 <数字やアルファベット> は ひるがえって 都市の側からみれば

私たちに 強い指示を与えるための記号 でもあります

彼は これらの記号を使い さらに <ミス・マッチの手法>をくりひろげています  
しかし ここに至ると ジョーンズのミス・マッチ一辺倒の表現は 少々うさん臭さが漂い始めます

ジョーンズの方法を厳密に見れば 彼が取り上げるのは 数字や文字そのものというより それらの<デザインされた形>です

それは<国旗>についても その後のモティーフについても 同様です

そこに 彼の表現が 現代の 記号に対する より明らかな批判 に至らず

彼が解体したはずの < 美の表現>に 変質し評価されてしまう余地 がありました 

二つのエール缶

次のジョーンズの取り上げた記号は 大量生産品の上につけられたマークです 
ここでも 彼のミス・マッチの戦略は同じです 彼は かつての<芸術>を扱うおもむろな手つきでこの記号を扱います どこにでも売っている ビールの缶を二個 彼はわざわざブロンズで作ります 手作りを強調するためか 二つの缶の大きさは微妙に異なっています 缶の表面には いかにも苦心した手つきで つまり 手で描かれたことを充分強調して マークが描き込まれます 観客は またもや彼の戦略に陥り このミス・マッチを <芸術>として ためつすがめつ<見る>のです 

その背後には まだジョーンズの高笑いが響いています 

 

グリーン・ボックスのメモ

「二つの似たもの(二つの色彩二枚のレース二つの形など)をそれと認める可能性を失うこと 一つのものからもう一つに似たものに 記憶の痕跡を移行させるに足りる 視覚の記憶の不可能性に達すること」

東野芳明氏は ビール缶は ジョーンズがデュシャンのグリーン・ボックス にある上のメモにヒントを得て制作した と指摘しています

メモは難解ですが <見た目がそっくりなら同じものだという常識 その常識をくつがえす表現を考えてみよ>と言う意味に取れます

ジョーンズは それを事物の記号化の問題 として考えています
私たちは 日常では 同じマークのビールはどれも同じものと見なしています 

都市のなかで <記号>に囲まれて生活する 私たちの感性は <記号が同一であれば同一物と見なす>ことに慣らされています   

そのことは 都市の側から見れば 私たちは <個別の差異を消去された員数の一人 に過ぎないという現実>と対をなしています

私たちの<記号>への順応は 人間をも 外側のラベルで<見る>習性 を養い 自身の像を ますます薄っぺらなものにしてゆくことでもあります

すれ違うデュシャンとジョーンズ

六〇年代に入ると ジョーンズは先人デュシャンの研究に打ち込んだと言われています 

デュシャンは 近代芸術の終焉にたちあいながら 「たった一人の運動}として 現代芸術の位相をひらきます

デュシャンのかんがえでは 創造行為の本質を占めるのは 事物の形としての作品でなく 作家が生む あらたなかんがえ の方です

彼は <見ること>を <かんがえること>に連動する 現代の事物と認識 思索の問題 として 概念のレベルでつきつめ 実験的な表現 として展開します 
一九一五年から二三年まで 制作が続けられる 通称「大ガラス」では さらに それらの実験的表現を組み合わせ 網羅することがめざされています 

一九三九年 デュシャンは 「大ガラス」の制作時のメモを印刷複製した「グリーン・ボックス」を

限定部 制作します 「グリーン・ボックス」は「大ガラス」の 言葉による照明装置 のような役割を 担っています 

「グリーン・ボックス」は そこにこめられた概念の広がりを 照らし出します

デュシャンにとって「グリーン・ボックス」の制作も 当然 一つの表現としてあります

ジョーンズは デュシャンの考察態度 特に<見ることに対する考察>を 批判的に受け継ごうとします 


 

 

 

ところで 近代芸術を批判するデュシャンの主張で 広くとりあげられるのが 次の言葉です

「印象派が勃興して以来 視覚的な作品は 網膜にとどまっている 印象派 フォービズム 抽象など いつも網膜的な絵画だ その物理的な関心 つまり 色彩の反応 といったものが 脳髄の反応を 二の次に置いている」

デュシャンの言葉は  近代芸術の営みが <見ることのみの追究>にはしり <かんがえることの連動>を 保存しえなかったことを 指摘したものでしょう

絵画が「網膜的な表現におちいっている 」とするデュシャンの批判に対して 

ジョーンズは 次のように反論します

「絵画にあっては 観念が伝えられるのは 目に見えるかたちを通じてであり それをさける どんな道も私は知らないし デュシャンにしても できるとは思えない 」

両者の主張は まったくかみ合っていません

<絵画>を恋慕するジョーンズのまとはずれな頑迷さに 私たちは ため息をつくことになるようです 

デュシャンは <作家の考えること>が 鑑賞者をも巻きこんだ 表現行為の総体から立ち現れること を想定していると思われます

ジョーンズは デュシャンが<観念自体をそのまま 何の介在もなしに 見るべきかたちをたちあげよ>と主張したかのように決め込んでいます

私たちの理解では デュシャンのいう芸術表現とは まず <思索によって あらたな考えを創造すること>であり さらに その<考えを 過去の芸術の形式を超えて さまざまなかたちに 具体化すること>です

彼にとっては 思索にまつわるすべての行為が 芸術表現です

それは作家が生む<考えと見るの連動した運き>を保ちつづけることに他ならないでしょう 

それに対し ジョーンズは <考えること自体を 直接あらわす絵画形式>に こだわり続けているようです

​モチーフとして<惹きつけられた 事物の様相> クロス・ハッチングや数字のデザイン に固着することによって <考えること・見ること>を固定化してしまいます 

この点において ジョーンズの現代芸術の作家としての不備は決定的ではないでしょうか

ジョーンズが 自らの<考えをそのまま見えるかたちに表そうとすること>は 彼が批判してきたはずの 抽象表現主義の <精神 イコール 事物とする 絵画の図式>を 受け継ぐことを意味しているとおもわれます

ジョーンズは ポロックが至った 古典・近代の芸術表現の領域にまいもどり <終焉を告げたはずの絵画の表現>を なおも展開しようというのです

サルトルの実存哲学

ジョーンズが 自らの<考え>(精神の営為)をあらわすものを 絵画だ とすることは

抽象表現主義の 精神イコール絵画の図式 を受け継いだことを意味しています

彼は ポロックの精神即 事物の表現 という近代芸術の到達点 終結点を引継ぎ 現実の事物の地平へ乗り出すなかで なおも <絵画>を展開しようと試みます

私たちが何を見、どう考えるかは本来私たちの恣意 自由意志 に委ねられているはずのものです

サルトルは 見ることを私たちの存在のあり方と自由 即ち実存に関わる問題だ としました 

ところが 都市は 私たちのまわりの事物を記号化することで 私たちの知覚と思考を誘導し 私たちの自由を遠いものにしています 

サルトルは 私たちが「ものを知覚するときには つねに一つの背景のうえに一つの形態が形成される」

 

と 知覚における図と地のゲシュタルト的関係 を指摘しています ところが都市の記号は つねに事物の上に自らの形態を浮かび上がらせ 事物の他の要素を 固定的に背景に退かせてしまいます 

日常での私たちの知覚は 常に自らを浮かび上がらせている 事物の記号の上 を滑っていくようです 

ジョーンズの<記号による疎外>の追究は サルトルの言う実存の追究 <自由をめざす営為> とも重なっています

ミス・マッチ手法をいつまでつづけるのか?

六〇年代には ポップ・アートの表現が一斉に花開きます

その呼び水となったのが ジョーンズの 大量生産された商品の記号を取り上げた作品「エール缶」でした

ジョーンズを表現に駆り立てたのは 記号としてのエール缶が 私たちの知覚 認識に起こす落差でした 

彼は それを<事物の記号と芸術の記号のミスマッチ> という構図で 批判的に表現したのです

エール缶が< ミスマッチ手法>の威力を発揮するのは 私たちが 絵画 芸術を 精神と同等のものとして 至上の位置におき かたや商品を その対極の 事物のなかでも最下層にある と考える限りにおいてです 
ところが ポップ・アーティストたちは 今や 至上の位置を占めるのは 私たちの精神ではなく 商品の方だ と主張して <商品の記号を 即 絵画>として 直結してしまいます 

ジョーンズには ウォーホルやリキテンシュタインらのポップ・アートは 精神の優位を放棄した 通俗に堕する表現 と映ったとおもわれます 

彼らは 商品の記号が氾濫する現代都市の状況を そのまま受け入れながら その批判を含んだ芸術表現 を展開するようです 

ポップ・アートの興隆は ジョーンズの表現を成立させていた 事物の記号と<芸術>の記号の落差 を埋めてしまいます 

抽象表現主義以降の芸術表現として一世を風靡した ジョーンズの表現は 自らが導いた 後続の<ポップ・アートの興隆>によって その命脈を絶たれるとおもわれます

彼の高笑いが響くのもここまででしょう

以後 ジョーンズは 都市の記号の体系からすべり落ちた 都市の事物 に目を向けはじめます 

彼にとって 絵画は あくまで個的な位相に止まり 社会的な概念(記号)と 自らの概念のあり方との 落差を

<見る行為>を通して検証するものです 
ジョーンズは 街でふと目に止まった壁の模様 すれ違った車に描かれていた縞模様など 意味のない模様を素材にし 執拗に 個の記号として有意味化すること を試みます 

しかし 都市の記号に背を向けた彼の試みは 意味・イメージを結ぶに至らず 無意味な事物に鬱々と拘泥する 作家の姿ばかりが残されています 

その暗い画面は ちょうど 疲労困憊した私たちが 放心状態におちいり 思わず口をついて出た脈絡の定まらない言葉をただ低くくりかえすかのような 寒々しい光景を 思いおこさせます

ここに至って ジョーンズの<ミスマッチの手法>を支え 芸術と日常の記号の落差 を際だたせた 抽象表現主義風のタッチは 彼の無意識をかきたてる 事物へのこだわりを 示すだけのものに なっています

無意味な 事物のありように 欝々と拘泥する画家の姿は 彼が勝ち得た 現代の巨匠としての評価とは裏腹に 私たち現代人が 都市の記号の脈絡から離れれば たちまち自身の精神が貧困にさらされる存在であることを あからさまにしています

今や ジョーンズの表現は それが<絵画の形式を保存している> 一点によって かつての美学的見地を満足させているにすぎないようです

その内容自体は 完備をきわめた記号空間 のうちにおかれた 現代人の混迷を示す<停滞の表現>におちいっているようです

ジョーンズの陰鬱な営みの背後から 鮮明に浮かび上がってくるのは <都市の記号システム>が すべてのイメージ・情報を 占有している <現代の疎外の状況>そのものではないでしょうか 

都市の記号に背を向け 都市の無意識に向かう ジョーンズの孤独な営みは <記号による疎外をさらに解明する表現>には至らず

彼がかつて批判し そこから出発したはずの 抽象表現主義の表現 精神の内面の追究に 際限なくのめりこんでゆく退行の動きとしてあるかのようです 

ジョーンズが 独語にも似た表現をくりかえし <絵画>にこだわり続ける姿は

かつてポロックが 精神と直結させた<絵画>を都市の最上位にすえようと 苦闘のうちにうがった 深い奈落に自ら 落ち込んでゆくかのようにみえます

しかし 同じ精神の退行とはいえ ジョーンズの退行のありかたは ポロックのそれとは 少し違った様相をみせているとおもえます

ポロックは 自身の情念(精神)に身をまかせ 絵画の平面を突き破るかのように その深淵にのみこまれてゆきました

​一方 ジョーンズの<絵画の生成過程>へのこだわりは 彼を<絵画の表面>へつなぎとめ ポロックのように 最終章に走ることは回避されているようです

<絵画>の表面にとどまる ジョーンズは たまたま見いだした 「クロス・ハッチング」に誇大な意味を与え それを際限なく描きます

 

 

 

 

 

 

ところが 空虚な記号でしかない「クロス・ハッチング」は 描かれば描かれるほどその意味を希薄にしてゆき それにともなって 彼の精神の貧困化 無意味化は 進行してゆくことになります 

ポロックが 精神の深淵に引き込まれていったの対して ジョーンズの精神は か<絵画>の表面で 限りなく

<拡散>し< 無意味化>してゆく といえそうです

 

 

 

 

 

かくして 都市の無意識に<見ること>の源泉をさぐり ひらすら<絵画>を求めるジョーンズは

​<自らの精神>を 現代都市の底辺を漂う<意味の定まらぬ事物>にかさね

孤独な面持ちで その<偶然>の中を さまようかのようです

彼がこだわり続けるのは <絵画と精神を直結>し <至上の位置>にすえることのようです 

彼は 都市の記号からはずれ <偶然のなかに漂う事物>に 表現の可能性を探りつづけます

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世紀の旗手の旅 辻井 喬  現代美術 第一三巻「ジャスパージョーンズ」 講談社 1993

「ジャスパー・ジョーンズ」リチャード・フランシス 東野芳明・岩佐鉄男 訳 美術出版社1990

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「私はイーゼル、パレット、えふでといった普通の画材から遠ざかりつづけている
私は 棒、こて、ナイフを また流動的なペイントや砂 われたガラス その他の異質な物質を加えた重いインパストをドリップすることを好む
(インパスト‐こってりとした絵具)
[記憶と現在]「宮川淳著作集Ⅰ」宮川淳 美術出版社1980
作品に砂を混ぜるポロックJackson Pollock 
The Museum of modern Art N.Y. icp.org

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「Target with four Faces」1955ジョーンズ

「旗」1954~55 107.3×153.8cm
The Museum of Modern Art, New York​​

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Numbers in Color 1958/59, Encaustic on Wood. 25.9×18.3cm.

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「ジャスパー・ジョーンズ」東野芳明 美術出版社 1979

「Scent」1973-4, Encaustic and oil on canvas.182.9×320.7cm

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「表層の美学 マルセル・デュシャン」M​・サヌイエ編 浜田明 訳 牧神社 1977

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「彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも」1912-23

「マルセル・デュシャン全著作集」ミッシェル。サヌイエ編 北山研二訳 1996 未知谷

「ミルクとミルクは同じかな ジャスパー・ジョーンズ」東野芳明 美術出版社 1979

「存在と無」J・P・サルトル、人文書院

「Wall Piece」1968

「批評家は見る」1965

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自作のクロスハッチングの前を歩くジョーンズ東野芳明 美術出版社1979.jpg

自作のクロスハッチングの前を歩くジョーンズ
「ジャスパージョーンズ」東野芳明 美術出版社1979の表紙

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