「お仕着せの「女」の記号」
シンディ・シャーマン
シンディ・シャーマンは 一九七〇年代より 活躍めざましい女流作家 のひとりである
彼女は 自身の表現について 次のように述べている
「もし 私がこの時代と この場所に生まれていなければ こうした表現を行うことはなかったでしょう
そして もし 私が男なら このような方法で 作品を生み出すことはなかったでしょう」
シャーマンは として扱われる 女性の疎外を 写真映像によって 追究する
自身が さまざまな「女」の記号を演じる姿をおさめた写真は「アンタイトルド・フィルム・シーン」と呼ばれる
彼女の「女」の記号の追究は しだいに初源にさかのぼり ついには 死の世界に至る
Cindy Sherman 1954-1954
ニュージャージー州グレン・リッジに生まれる
1976 22歳 バッファロー ニューヨーク州立大卒業
1977 23歳 芸術振興基金より奨学金を得 ニューヨークに住む
1970年代末より 「アンタイトルド・フィルム・スティル」シリーズ始める
1996 東京現代美術で「シンディ・シャーマン」展
「写真で撮れるものを 何時間もかけてコピー
する必要はない その時間を 私は
コンセプトに費やせる」
「Untitled Film Still #21」, 1978
C・シャーマンは 映画のスチール写真の手法で写真を撮ります
若い女性は 待ち受ける運命におののくかのように 上方に不安げな視線を投げかけています
この意味ありげなシーンは まるでヒッチコックの映画の導入部分を思わせます
被写体の女性は シャーマン自身ですが はでなメーキャップと いかにもお仕着せの服装は 彼女がすでにある物語のなかの存在 であることをを示しています
背景のビルや 女性の服装からすると 写真の時代設定は ニューヨークに高層ビルが建ち並び始めた 今世紀の始め頃のようです
田舎から上京したばかりの 若いヒロイン
彼女は 目的の場所が見あたらず 街の規模の大きさと喧噪に当惑し 立ち尽くして立ち尽くしているのでしょうか・・・
それとも 事態は全く逆で 彼女はこの街を去ろうとしているところなのかも知れません
ビルから出てきた彼女は 後にしたオフィスのあたりを 嫌悪の情をもって振り返る・・・
それとも・・・
写真の情景は 私たちに読解をせまるばかりで ストーリーの全体は 作者の胸のうちに秘められていて 決して明かされません
記号のシステムの中の写真
現代の都市文化にある私たちは 他の時代とは比べものにならない 大量の映像イメージに囲まれて生活しています
<記号のシステム>の側にあって 映像イメージを作り出す仕事の広がりは テレビ映画 商業写真 雑誌 広告 ビデオ制作 インターネットのホーム・ページ制作などに及んでいます
これらの映像イメージ制作を 今 仮に <映像デザイン>と呼ぶことにします
<映像デザイン>の領域は 個人の幻想とは逆立する <システム>の側で 映像イメージを作り出す仕事です
<映像デザイン>は 私達の願望をすくい上げて映像化し それらを<システム>の側に反転させ 企業の意図に重ね合わせ イメージ記号とします
私たちが スナップ写真を撮るとき 被写体の人物にポーズをつけてみたり 自身が写る場合も にっこり微笑んでピース・サインをしてみたり あるいはすましこんでみたり というふうに何らかの演出をし 最も好ましい「事実」をつくり出そうとします (その演出の仕方は 今や <映像デザイン>の影響が大です )
私たちのスナップ写真の演出は たわいのないものがせいぜいですが <システム>の映像イメージの「演出」の度合いは 私たちのスナップ写真の場合をはるかに超え 「事実」を反転させた 虚構のイメージが制作されます
例えば 商品の広告に使われる若い女性のアップの映像は 虚構の設定のなかでの笑顔であって
その商品が 同じように魅力的である という意味に重ねられるために作られます
そこでは 若い女性は あくまで健康的に 多くの場合 明るく微笑んでいなければなりません
家族団らんの映像に登場する人物は 幸福な また時には 不幸な家庭の一員を演じます
登場人物は たとえ実名で登場しても 虚構の設定のなかの人物です
<記号のシステム>自体が 私たち個人の日常とは 逆立してたちあがる 虚構の世界です
その虚構のドラマの成立を支えているのは 映像は事実をそのまま映すものだとする 私たちの映像に対する 素朴な 位置づけです
それらは強固な固定観念となって <システム>が繰り出す 大量のイメージ映像の虚構を支えています
<システム>の側 <映像デザイン>の領域から見れば 虚構の映像イメージを欲しているのは 大衆であって 彼らは イメージ記号の虚構に酔いしれたいのだ ということになります
大量の映像のイメージ記号に慣らされた大衆 である私たちは 個と<システム>の反転を 当然のことのように黙殺し 記号に当てがわれた虚構の意味 を受け入れています
<システム>の記号の世界では 現実のニュース映像さえも 虚構のイメージ記号の一つです
事実を映すはずのニュース映像は ただ現実を撮ったというだけでは十分ではなく 事件をより事件らしく見せる <システム>のイメージ記号として 最もふさわしい映像が選ばれます かつてウォーホルは 虚構の記号である ニュース映像を 私たちが現実の像として受け取る事実を 驚きをもって取りあげ作品化しています
A・ウォーホル「Satuerday Disaster」1964 208×152cm Rose Art Museum.
C・シャーマンの写真は <映像デザイン>の手法を真似てつくられています
彼女の写真のシーンは まるで広告のイメージ映像のように 綿密に計画され つくり出されています
その映像は 個の側で作られたイメージ記号であっても <システム>の側への転倒を あらかじめ想定してつくられ提出されます
ただし 個のイメージ記号に負わされた意味は シャーマン自身のうちに 秘められたままにされます
リキテンシュタインの選んだ漫画
C・シャーマンのスチール写真はかつてリキテンシュタインが漫画の一こま選んだことを思い起こさせます
映画のあるワン・シーンや 漫画の一こまには 全体のストーリーは 忘れ去っても 何故か 長く私たちの記憶に止まるものがあります
それは漫画の一コマや 映画のワン・シーンが 私たちの無意識を 強烈に刺激する記号だからです
「Untitled #92」 「ヘアリボンの少女」Roy Lichitenstein,1965.
リキテンシュタインは 前後の脈絡から切り離された漫画のワン・シーンを設定し 渦中にある女性に焦点を当てた作品を展開しました
彼は 現代の都市の記号の一つである漫画のもつ 強烈な指示性を取り上げ 芸術の記号としたのです 渦中にある女性のとりあげ方は 両者に共通しています
シャーマンも 同じ理由からスチール写真を選びます
学生時代は絵画を専攻し 対象をそっくりに写すことは得意だった と語るシャーマンは
絵画を捨て写真を選んだ理由について 簡潔に次のように述べています
「写真で撮れるものを何時間もかけてコピーする必要はない その時間を 私は コンセプトに費や せる」 シンディ・シャーマン展図録, 東京現代美術館 1996.
女性アーティストの進出
都市の記号のシステムが完備強化された八〇年代 システム化された記号の領域を 自らの個の領域とみなし 新たな表現を展開したのは女性アーティストたちでした
J.コスス (ちなみに 男性)は 次のように語っています
「八〇年代のアート・シーンは 女性アーティストの席巻に尽きるかもしれません
本当に歴史をつくったのは ジュリアン・シュナベール サンドロ・キア フランチェスコ・クレメンテ アンゼム・キーファ あるいはゲオルグ・バゼリッツのなかの 誰でもなく ホルツァーや クルーガー それにシンディー・シャーマンとか サラ・チャールズワースだったのです」
意味の形成/歴史の形成 インタヴュー上田高広 美術手帳,1994 12.
コススが 八〇年代のアートをつくったと指摘する女性作家たちの姿勢と 右にあげられた新表現主義の男性作家のそれは 好対照をえがいています
新表現主義の作家たちは <記号のシステム>が さらなる効率化をめざして進む方向に反対し あえて逆行するコースをたどります 彼らは強化完備された <記号のシステム>に個の表現が回収されてしまう状況に対して 表現が記号化する以前にまでさかのぼり 表現の初源のエネルギーを取り出そうとしています
新表現主義の男性作家たちの営みは 退行のメカニズムによって 時代の無意識をさかのぼり 失われた表現性を引き出そうとする試みだといえます
一方 女性作家たちは <記号のシステム>が完備した 現在の状況を受け入れ 記号がつくり出される領域を そのまま自分たちの表現を展開する場所とします
女性作家たちは <記号のシステム>を 言わば 彼女たちの<自然>の環境として 受け入れるのです
女性作家の一人のC・シャーマンは 「私はメディアに起こっているすべてのことがらを認識している」と <記号のシステム>について 自分の住む界隈を知り尽くした住人のように 語っています
八〇年代の 一群の女性作家たちと 新表現主義の男性作家たち 両者の行き方の違いは ちょうど 五〇年代の抽象表現主義の作家たちの表現が 内面に向かう営みとしてあり それを批判した次世代の作家たちの表現が 直接都市の事物や記号に向かったことの違いを思い起こさせます
しかし この男女作家の動向の違いは はたして男女の性差に還元されるものなのでしょうか?
記号化される女性の存在
シンディ・シャーマンは 彼女の アート芸術表現に至った経緯について 自らが女性としてあることが重要なファクターだとして 次のように述べています
「もし、私がこの時代とこの場所に生まれていなければ、こうした表現をおこなうことはなかったでしょう。そして私がもし男なら、このような方法で、作品を生み出すことはなかったでしょう。」
東京現代美術館,1996,シンディ・シャーマン展で発行したカード
彼女が身を置いた「この時代とこの場所」である現代都市は 都市の<記号のシステム>によって統御されています
そのなかで 彼女が女性であることはどのような意味持つのでしょうか?
現代都市はメディアから繰り出される「女」の記号にあふれています
性の要素のみを 異様に拡大させた「女」の記号のあでやかさは 現実の女性から大きくかけ離れた虚像でしかありません
Willem de kooning 「女1」1950ー52
かつて デ・クーニングは 巷にあふれる「女」の記号に 自らの憎悪を向 け自身の「女」の制作に取り組みました
彼が憎悪を向けたのは 彼をこれみよがしに挑発する 記号の「女」と 彼を含む実在の人間との落差です
デ・クーニングは 都市の記号の裏に隠されてしまった 現実の人間の存在を 憎悪をもって探りました
シャーマンは 学業を終え ニューヨークに移り住んだ時 街がなんとも恐く しばらく外出できなかった と語っています
記号と現実が錯綜する現代都市では 人々は記号化され 女性は自身がそのまま「女」の記号とみなされ得る存在です
現実の女性であるシャーマンが 不意にデ・クーニングの表現する憎悪 を浴びることも十分起こり得ます
彼女は 自身が「女」の記号を負わされ 見知らぬ他者から 愛憎の目標とされ得る存在であることに恐怖しました
「女」という記号は 一体どのように彼女に負わされているのか?
また 彼女自身の存在は「女」の記号の広がりに どう対応しているのか?
こうして 彼女は 自身を恐怖に陥れる「女」の記号の調査に乗り出します
ヒロインの記号
C・シャーマンが最初に調べた「女」の記号は「少女」です
彼女がかつて「少女」とみなされたことは何を意味するのか?
「女」のエロスから遠い無邪気な「少女」もまた ひとつの記号にすぎない
そうすると 夢に満ちた「少女」の時代も「少女」の記号の範囲に身を置いていた というだけに過ぎないことになる
彼女は 「少女」のメーキャップで 再び自身をその記号に置き「少女」の記号を調べます
次に 彼女の調査は 性(エロス)の記号としての「女」に移ります
そこでの彼女の設定は「女=ヒロイン」です
今や シャーマンは自らの世界の大女優です
鏡の前で 自身の容姿にみとれる「ヒロイン」 ベッドの上に下着姿で横たわり 物思いにふける「ヒロイン」 飾り窓風の窓辺に腰掛け 外を見る「ヒロイン」など
彼女は「ヒロイン」の記号の さまざまなシチュエーションを演じてみます
左から , Untitled Film Still #15 1979, Untitled Film Still#6 1977, Untitled Film Still C 1975.
しかし 自らが女優を演じるシャーマンの「女」の記号の調査は 彼女を「女」から自由にはしませんでした
女性は なぜ 「女」の記号のなかにあることを要求される存在なのか?
彼女が 自ら「女」の記号を演じることで調べるのは 「女」の記号と自身との落差です
ところが 演じられる「女」の記号は 次第に彼女に密着し始め 彼女を「女」に近づけてしまいます
そこで 彼女は 古典絵画の記号の体系に入り込み 成熟した「女」から 老齢の「女」 さらに「女」に対する「男」の記号をも演じ 自身に密着してくる「女」の記号から遠ざかろうとします
しかし 彼女が「男」や「老女」を演じることで「女」から遠ざかろうとするとき 逆説的に浮上してくるのが 彼女が 女性であるという事実です
観客は 女性である彼女が いつ彼女自身をあらわにするのかと 彼女の「女」の記号を調べる営みに潜む「エロスに興味をよせ始めます
シャーマンが 自身をあらわにするとき 彼女はついに本来の「女」の記号としてあるのではないか?と
かつて大女優のモンローは 自分自身と 記号化された「女」モンロー のギャップに苦しみましたが 個人の世界の大女優を演じる シャーマンにも 同じ事態が生じました
彼女が制作した ブランドファッション・メーカーのための写真では 高級服に身を包んだ女性は 硬直した姿勢で 拳を握りしめ「女」の記号と見られることを全身で拒絶しています
「寄りかかる女たち」Escobar Marisol 1963
マリソルの女
硬直したシャーマンの女性の映像は マリソルの人形とも彫刻ともつかない女性像を 思い起こさせます
彼女が 都市の視線を浴びて硬直する女性像を制作したのは 先のシャーマンの作品の ちょうど二〇年前です
その肉体は 木の柱と化し もはや自分で立つ事もかなわず 壁に寄りかかっています
自らの尊厳を保つかのように顔を上げ 前方を見すえようとするものの その目は固く閉ざされています
二人の頭部は 半分が壁にとけ込んで失われています 硬直したとはいえ その胴体はまだ彼女たちの肉体の線を止め 暖かさを感じさせる木の柱です
石膏で型取られた彼女たちの表情は むしろおだやかで 自らの運命をあえて甘受するかのようにみえます
プライドがそうさせるのか 彼女たちは微笑んでさえいるようです
シャーマンをさかのぼること二〇年 マリソルの表現した女性の硬直は 愛玩される人形の位置に滑り込んだ女性の 行き場のない姿です
しかし 彼女のとらえる 当時の女性の硬直には まだ現実と折り合い 優雅さを保つだけの 余裕が感じられます
ジョージ・シーガル「赤い籐椅子の少女」 1973
シーガルの人体
マリソルは 自身の顔を石膏に取って作品に使いましたが シーガルは人体をそのまま石膏シートで型取ることで知られています
彼の表現する女性もまた ある瞬間から 突然動きを封じられ その場に静止を強いられています
彼の女性像は「女」の記号の宿る 表面である皮膚をはぎ取られ 匿名化した肉体 事物と化した存在です
そこには もはや 怒りを秘めた硬直はなく 弛緩したまま動きを封じられた 化石のような肉体があります
シーガルが この作品を制作したのは マリソルの「女たち」から さらに一〇年の後の 一九七三年です
ここには マリソルの「女」が 辛うじて保つ 存在の尊厳が もはや失われています
今や 生きてあることの尊厳すら 記号でしかないのだろうか?
人は 表面の記号が奪われてしまえば もはや動くこともかなわぬ 肉塊の残骸 となってしまうのだろうか?
シーガルの芸術表現は 私たちにそんな疑問と 不安を突きつけます
彼の女性像は 完備を進める 現代の<記号のシステム> のもとにある私たちの存在が さらに危うい基盤の上にあることを暴き出しています
デュシャンの制服
デュシャンは 私たちが「男」または「女」として 社会から記号化された存在 であることを考えました
それは シャーマンの硬直の表現から 六〇年前 マリソルの「女たち」から四〇年前の 一九二三年です
彼の 「大ガラス」は 私たちが「男」または「女」という いずれかの性の記号を背負うことによって 相互に疎外される存在であること を表現しています
私たちが 他者を「男」または「女」としてみる時 互いに異質な欲望のメカニズム のなかに 相手を置くことになり 本来の存在は かき消されてしまいます
デュシャンの「大ガラス」は 「男」「女」の欲望のメカニズムを 永遠に隔てられ 決して交わることのない 異なる位相の運動体として表現しています
デュシャンの「大ガラス」1915-23 の部分「九つの雄の鋳型」 その形は それぞれ いかにも という感じがするだろうか
https://www.eonet.jp/kyosyuu/heaven.html
その解明は 他の機会に譲るとして ここでは デュシャンが取りあげた 男性の記号 をみます
男性は 先ず 職業を通して 存在を記号化される存在です
「制服とお仕着せの墓場」あるいは「九つの雄の鋳型」と呼ばれる部分がそれです
そこには 彼が チェスの駒から デザインのヒントを得た と思われる 胸甲騎兵 憲兵 召使い デパートの配達人 カフェのドアボーイ 僧侶 墓堀人 駅長 警官 と呼ばれる 九つの制服が並んでいます
デュシャンは 職業自体を 社会が人間 にお仕着せる記号 と考えました
それらの制服は まるで拘束服のように表現されていて 人間が社会の要求する鋳型にはめ込まれ 本来の姿から疎外されることが あらわされています
男性が 職業の持つ社会的地位によって 自身の存在が定められる傾向が 大であるのに対して
女性の場合 その存在を規定するのは 養育者を介した 社会によってあらかじめ押し着せられた「女」の記号です
その記号によって 彼女がどのような職業の記号を選ぶか以前に 「女」として いかにあるべきかが厳しく問われます
男性にとっても 同様の事情があるとは言え 女性にとっては 「女」の記号 「性」による疎外が くぐらねばならない 最も大きな関門であることは 現代においても変わりがありません
デュシャンは「大ガラス」で「お仕着せの制服の墓場」として「男」の記号を集めましたが
シャーマンは その六〇年後 スチール写真によって 女性にお仕着せられる「女」の記号を 次々に収集します
彼女の「女」の記号の収集は デュシャンが「男」の記号の集合に「制服とお仕着せの墓場」と名づけたことと呼応するように 次第に記号の「墓場」の様相を呈してきます
死の匂う世界
「女」の記号は どこまで女性にまとわりついてくるのか?
シャーマンは 「女」の記号が破綻をむかえ 女性を解放する地平をめざします
その地は死の世界です
Untitled #153, 1985.
記号の死は 肉体の死とともに訪れるのだろうか?
それとも 死んだ女は まだ「女」の記号をまとっているのだろうか?
さらなる「女」の記号を期待する観客は 生を離れることによって「女」を ふり切ろうとする 彼女のおぞましい変身につきあわされるのです
人は 幼い時期に 誰しも一度は次のような空想にふけるはずです
<もし自分が今 死んでしまったとしたら 人々はどんな反応を示すだろうか?>
<人は私の大切さにやっと気づき 深い悲しみを味わうに違いない >
<私が死んだ後 父や母 友人が 私の亡骸に取りすがって嘆く姿を 私自身が そっとどこかで隠れて見ることができたら それはどんなに甘美なことだろう・・・>
シャーマンが「女」の記号をふり切るために死の世界をイメージするのは 少女シャーマンへの退行です
そこには 少女シャーマンが ふくらませた死に対する空想 がひろがっています
<死後 獣に変身をとげる「女」がいたとしたら それでも彼女は まだ「女」だろうか?>
<美しい「女」だった彼女の変身 を目の当たりにする男どもは どれほど驚くことだろう・・>
「世間は美しいものに あまりにも気持ちが向きすぎています だから 私は 通常グロテスクとか 醜いとか言われるものを もっと魅惑的で 美しく見ることに 興味を持つようになったのです」
シンディ・シャーマン展図録 1996 朝日新聞社
「世間が見たがる美しいもの」とは 人々を欲情させる「女」の記号のエロスです
「女」の記号の エロスは 「女」の記号の調査 を繰り広げるシャーマン自身に まとわりつきます
「私の写真は 私についてのものではない 」「私は ヌードになるつもりもない」と 彼女が断らねばならなくなった時 シャーマンの自身 を被写体とする「女」の記号の調査は エロスにからめ取られ その限界を迎えます
彼女は「女」のエロスから逃れ 再び「少女」に退行します
人体模型の登場
シャーマンは 自身が記号を演じることを止め 人形や人体模型を使うことを始めます
壊れた人形は 愛玩される存在 に甘んじること に疲れはて た女性の存在 を象徴するかのようです
<女性は「女」の記号を押し着せられてきた その内面は 今や醜くこわれた人形そのもの のように疲弊している そんな 醜くこわれた人形を あなたは 変わらず愛玩できるのか?>
かつての愛くるしさ を醜い硬直 に変容させた 人形の表情は そんな鋭い問い となって 私たちに迫ります
Untitled #316, 1995. Untitled #255, 1992.
医療器材の人体模型は 「女」の記号の持つエロス を零度にした単なる肉体の形態の記号です
シャーマンは エロスが零度に設定された 肉体の形態の記号 を使い あからさまなポーズの写真を制作します
彼女は エロスが零度 のはずの「女」の記号が 人々に引き起こす反応を調べます
「・・・いわゆる「セックス」を見せることに興味はありません・・・それよりも 性的な意味あいを含んだ イメージを用いて 性的なものより もっと大きな何か を表現することに興味があります」 シンディ・シャーマン展図録 1996 朝日新聞社.
「性的なものよりもっと大きな何か」と 彼女が言うのは 人間が 性の記号「女」「男」によって疎外された存在であること それに関わるエロスの働き を明らかにすることに他なりません
<このおぞましい記号から 解放される地平 に到達できれば 私たちは 互いに 本来の人間の姿を見るはずだ
そこに至るには るいるいと横たわる 記号の死骸を 踏み越えて行かねばならない >
シャーマンの「女」の記号の調査は 時代の無意識 を次第に下降し 死の匂いの立ちこめた 荒涼とした地点に至ります
そこが 時代の精神の固着する場 なのだろうか?
少女シンディは 自身が味わった「女」であること の恐怖の代償に 「死」の記号をふりまき 報復するのです