ヴィレム・デ・クーニング
無意識へのプロセス
「こんな絵を描くはずではなかったのだが・・・」とつぶやきながらデクーニングは すさまじい「女」を描き続ける
現代都市はあでやかな「女」たちで満ちている しかしその「女」たちは実体のない記号だ
彼はたまたま目にとめた「女」のイメージ記号の一つを出発点に 失われてしまった生来の「女」を自らの無意識世界に探し求める その探求は デ・クーニングの「女」を激しいタッチに引き裂き 画面は いつしか彼の無意識から吹き上げる憎悪に埋め尽くされる
Willem de Kooning
1904-1997
1904 オランダ ロッテルダムに生まれる
192622歳 アメリカに密入国
1930頃 アーシル・ゴーキーと知り合い影響を受ける
1948 ゴーキーが死亡し転機を迎える
1950-52 「女・1」を制作する
195349歳 シドニー・ジャニス画廊で「女」シリーズ個展
199793歳 死去
「女Ⅰ」1955-56 192.7×147.3cm The Museum of Modern Art N.Y.
「女Ⅰ」 1950-52
画面上の「女」のイメージは 作者の恋慕と憎しみの交互の激情に引き裂かれ またかき集められ ずたずたにされながら なおも私たちに微笑みかけてさえいるようです
その肉体はかろうじてもとのかたちを止めていますが 描写というよりは破壊に近い あまりにも激しい彼のタッチにさいなまれ 骨格を消失したかのように画面いっぱいに広がっています
画家はただ描くアクション行為にその成り行きをまかせ あえてその激情の噴出を手加減しようとはしていません
かと言って「女」という制作の最初にあった主題を葬り去ろうというわけでもなさそうです
「わたしはいつも 若いひと 美しい女という考えからはじめたが それが変化するのに気がついた 誰かがいつも出てくるのだ 中年女性がね あんな怪物を作るつもりはなかったのだ」
デ・クーニングは制作の経緯について上のように述べています
彼の制作は ポロックと同じオートマティズムの手法を取っています
しかし デ・クーニングは ポロックが捨てたイメージを決して手放さなかったのです
「女」のイメージは彼の制作の入り口でありまた出口でもありました
彼は自らにのみ開かれたその通路をとおって彼の表現の源泉である無意識の世界へ降りていき また戻ってくることができたのです
デ・クーニングのオートマティズム
先ず デ・クーニングの制作の過程を追ってみます
彼は最初に「女」という主題をもうけます
それはふと目に止まったピンナップの断片的なイメージを出発点に定めただけかも知れません
主題と言っても それはまだ制作に取りかかるきっかけに過ぎません
主題の概念はまだ入り口だけが分かる空っぽの入れ物のようなものです
用意したカンヴァスも主題も空白のままです
彼はその空白の「女」という主題とカンヴァスに 浮かんでくるあらゆる思いを絵具に乗せてぶつけていきます
無論 彼は主題を美化してまとめるつもりはないのです
ちょうど 精神分析の自由連想法のように 思い浮かんだままを描くアクション行為に託して画面に重ね あるいは削りとっていくのです
制作が進むにつれて 無意識の退行がすすみ 絵はあらぬ方向にむかいます
こうなると 彼にはいつどこに完成が待っているのか見当がつきません
彼にできるのは 自らの無意識が再び自我に統合され ある納得が訪れるまで 描くアクション行為を続けるしかないのです
気がつくと、彼が等身大のカンヴァスに取りかかってから二年間の月日が流れていました
ゴーキーとの出会い
Arshile Gorky 1904-1948
一九二六年オランダで学業を終えた二十二才の若きデ・クーニングは 密かに渡米します
彼は あこがれの新天地で その現実との落差にうちひしがれながらも 貧困のうちに画家を志します
そのデ・クーニングに大きな影響を与えたのがゴーキー(1904-1948)です
彼らが出会ったのは 一九二九年頃 折しも 大恐慌による空前の不況のさなかでした
後にデ・クーニングとともに 抽象表現主義の両雄とみられるようになるポロックがニューヨークに出たのもちょうどこの頃です
ゴーキーは同年齢ながらデ・クーニングにとっては父のような大きな存在でした
デ・クーニングと同年齢のゴーキーがアルメニアから戦火に追われた難民としてニューヨークに渡ったのは 一九二○年 彼が一五才のときです
ゴーキーは 若くして肉親を含む多くのアルメニア人の虐殺と親しんだアルメニアの美術の破壊を目の当たりにしました
おそらく その深い傷を癒すには絵を描くことしかありませんでした
貧困のなか 独学で絵を学んだゴーキーは 二〇才の頃には すでにグランド・セントラル・スクール・オブ・アーツで教えるようになっていました
彼は デ・クーニングにとっては ニューヨークでの画業と生活の先輩でもありました
ゴーキーのアトリエ近くに身を寄せたデ・クーニングは ゴーキーの画業の足跡をたどるかのように絵画の習作を繰り返しました
ゴーキーの表現
かつてロシアを去りパリを制作の場としたシャガールは「私は自分の絵画を通じて 故郷に忠実であると信じている 」と語りました
「アルメニアの芸術に満ちあふれた場所に生まれ 育つことができたぼくは なんという幸運であり 光栄だろう 」と語るゴーキーは シャガール以上に失われた故郷に忠実でした
彼が重ねるヨーロッパ近代絵画の検証は失われた故郷の果てしない追体験でもありました
ゴーキーはピカソやミロの方法を踏襲し 彼らの 再現性をとどめた絵画の延長上に 故郷で開花するはずだった自身の近代を見いだそうとするかのようでした
ただし それは 彼の切なるノスタルジーをもってしても 終焉した近代の方法であることに変わりはありませんでした
現代都市に身を置くゴーキーには 彼らの画風のすべてを取り込み めまぐるしくそれらを変換しつづけるしかありませんでした
そのめまぐるしい変換は 彼をオートマティズムに近づけ 彼の表現を後の抽象表現主義の成立する地点に最も近い位置まで押し上げていきました
ゴーキーの死
四〇年代前半までのデ・クーニングはゴーキーの考え方に心酔し 作品の見分けがつかないほどゴーキーに同一化していました
そのままいけば 彼はゴーキーの影のまま終わる存在でした
ところが 一九四六年 度重なる不幸がゴーキーを襲います
アトリエの火災による作品の消失 癌の発病 交通事故で首を骨折 その後遺症による手の障害 等々 あまりの悲惨さに妻は娘をつれ彼のもとを去ります
一九四八年 ゴーキーは 見舞いに訪れた友人たちを送り出した後 アトリエで自らその命を絶ちます
デ・クーニングは かけがえのない師であり 朋友でもありながら あたかも父のごとく彼を導き支配した人物を失います
ゴーキーの死は デ・クーニングにとっては 上位自我のように君臨したた人物の喪失でした
その死は 結果的には ヨーロッパ近代絵画の呪縛からの解放もたらしましたが 同時に 異国の現代都市での精神的なよりどころの消滅でした
ゴーキーの死後 デ・クーニングは 一人アトリエにこもり 用意した等身大のカンヴァスに向かい 「女」の制作に二年の時を過ごします
あたかも精神の自己分析であるかのような二年間の制作を終え 彼は自らの自我の統合と新たな表現を手にしました
デ・クーニングの「女」が もう一方のポロックの表現とともに 抽象表現主義の幕開けを告げることになります
ポロックとデ・クーニングその無意識概念の違い
ポロックとデ・クーニングは 抽象表現主義の双璧と言われています
ポロックが一瞬の集中に全力を傾け 時代を一気に駆け抜けた感があるのに対して 一方のデ・クーニングは その後の時代のめまぐるしい表現スタイルの変化にも動じることなく 彼の表現スタイルを保ち続けます
ポロックの一瞬の集中とデ・クーニング持続の違いをたどっていくと 両者の無意識概念の違いに行き着きます
ポロックは ユングの無意識を採採り 自身の無意識に 自然 人類の歴史への通路という過重な意味を負わせました
その過重さが 彼が自殺とも取れる事故で世を去る一因となりました
一方 デ・クーニングの取った無意識は フロイトのそれでした
「女」という主題をたどる制作は ちょうど彼の母子関係に焦点を当てた自己分析の位相にあります
デ・クーニングが無意識に投げかけた主題は 言わば彼の無意識と等身大の大きさとしてありました
そのため 彼は破綻することなく制作を持続できたのです
相違する二人の無意識
デ・クーニングにとって 制作は 自身の無意識への通路でした
彼は二年間におよぶ「女」の制作によって自身の固着のありようをつきつめます
抑圧されていた固着は苦痛の源でしたが 彼にとっては同時に イメージが沸き上がる表現の源泉でもありました
彼はすでに解消した固着を捨て去らずそのイメージを表現の源泉として温存しました
かつての固着点は苦痛の震源であることを止め 言わば デ・クーニングの制作がたどり着く母港のようなものとなります
デ・クーニング自身がその制作を「俗悪のメロドラマ」と呼ぶように 制作のきっかけはふと眼に止まった雑誌のピンアップ写真でもOKでした
筋書はちがっていても たどりつく結論はいつも同じです
彼の制作は ありきたりの結末に至る<無意識の迂回路>をさまざまに作り出せばよかったのです
おそらく 日常から表現への没入も 表現から日常への帰還も ポロックのように過剰な緊張や苦痛を強いる困難なものでなかったと思われます
入り口と出口が知れた自身の無意識を デ・クーニングは易々と出入りします
一方 ポロックの無意識の固着点はあまりにも強大な両刃の刃です
彼の固着は表現の源泉でしたが その直視は自身の存在を危うくするものでもありました
ポロックには 彼の無意識への没入が 世界の無意識へとつながるという意義づけが必要でした
その設定は現実の彼の渇きや みじめさを隠し 彼を巨人のごとく尊大にさせました
が それは当然 絶えず現実から覚醒をせまられる虚構でした
ポロックは自ら設定した虚構と 現実の落差にさいなまれ 固着の威力をますます強大にさせ それに抗い切れず破綻をむかえます
内面から吹き上げる憎悪
デ・クーニングの抽象表現主義は憎悪の表現です
彼が主題を「女」と定めて制作アクション行為に向かう時 彼の内面から噴きあがり その主題を満たすのは憎悪です
それは単に「女」への憎悪だけに止まらず 自分自身に対する憎悪 自身の欲望に対する憎悪 自身を取りまく世界への憎悪でした
彼はそれらを描くアクション行為にのせて存分に噴き出させます
デ・クーニングのオートマティズムによる制作は 憎悪の噴出の大集合となり それが一区切りした時が終りです
近代の憎悪の表現 例えばムンクの「叫び」は まだ自然に囲まれた近代の都市での人間が圧迫される自然の叫びです
一方 デ・クーニングの憎悪の大集合は 現代都市のシステムによって生身を管理され さらにに無個性化の道を歩まされる人間の 後もどりのできない怒りの叫びと言えます
アメリカの現代都市は 扇情的であでやかな「女」のイメージに満ちています
しかし 雑誌やマス・メディアにあふれる あでやかなピンナップは記号という虚像に過ぎません
都市のシステムは 人々から生身をそぎ落とし 自身の効率化をすすめる 一方で あでやかな生身の典型を フィクション つまり記号として日々 大量に人々に浴びせます
「私はいつも俗悪のメロドラマに包まれている」と彼が言うように デ・クーニングは ピンナップの「女」からそぎ落とされ その裏側に押し込められたはずの 生身の「女」を憎悪の触覚で探り当てようとします
その制作は 言わば 都市のシステムが私たちから収奪した生身(自然)をとりもどし 自己回復をはかろうとする営みです
デ・クーニングの自己回復を目指す営みは 記号の側面からみれば 都市のエロスの記号(人口)をふたたび自然に基づいたこの記号としてたちあげようとする試みです
画家は借りものの「女」の記号をたよりに イメージを失ったこの領域におりてゆき ひたすた描く行為をくりかえします
しかし それはあらたな人間のイメージを結ぶには至らず イメージ以前のバラバラな断片をつみあげるに終わっています
画家の描く行為は 都市のエロスの記号(人口)の解体と失われたこのイメージの再建の間を振り子のように揺れ続けます
デ・クーニングの芸術表現は その果てしない反復運動のなかからとりもどした人間の生身(自然)の残骸を白日のもとにさらすことによって かろうじて現代都市の批判たり得ています




「花咲く水車小屋の水 」Arshile Gorkey1944
女優モンローは 自身に負わされた「女」の記号とのギャップ苦しんだ


デ・クーニング マリリン・モンロー1954

Edward Munch
1863 -1944
[病苦と恐怖は私の人生のボートを漕ぐオールだ」というノルウェイの画家ムンク
幼くして母を さらに思春期に姉を結核で失う
自らも後年神経を病む
病苦と死の恐怖を主題に近代人の孤独を描く
ちょうど彼が「叫びを描くころ ヨーロッパは帝国主義の時代に入る
列強は軍事力を増強し弱国は植民地化の危機にさらされる
ムンクの絵には 豊かな自然に囲まれた北欧ノルウェイの日常が
時代の動向によって奪われてゆく恐怖と憎悪がほとばしり出ている
