ジャクソン・ポロック
「私が自然だ」
「私が自然だ」と豪語するポロックは 近代ヨーロッパ絵画を振りきり 新たな芸術表現を生み出す もともと画家はイメージを描く ところが 彼の始めた絵画は 描く行為の中で生まれてくるイメージを否定し ただ塗料を滴らしつづけるという 矛盾に満ちた一種の苦行の様相を呈している 自然と交感するその偉大な行為も 醒めてみると ただ塗料を撒き散らすだけに終わっているようにみえる
制作の高揚と現実のギャップに苦しむ彼は 自殺とも思える自動車事故で若くして世を去る

Jackson Pollock 1912-1956
1912 ワイオミング州、コディに生まれる
1929 18歳 兄たちに伴われニューヨークに出る アート・スチューデンツ・リーグでT・H・ベントンに師事
1930年代後半からアルコール中毒
1938 26歳 FPA(連邦美術計画)で得た職を飲酒のため解雇される
1939-40 ジョセフ・L・ヘンダーソンに精神分析を受けデッサンを描く
1943 31歳ペギー・グッゲンハイムの「今世紀の美術」画廊の新人画家となる
1949 37歳 ベティ・パーソンズ画廊三回目の個展で、ポアリングによるイメージを描かない絵画が評判となり
大ブレークする
1950 38歳 同画廊四回目の個展の大作群が売れず新たな絵画の模索はじめる
1956 44歳飲酒運転、自動車事故で死亡
大恐慌に遭遇するポロック
一九三〇年九月、十八歳のポロックは兄たちについてニューヨークに出ます
ポロックが ワイオミングの田舎から ニューヨークに出たのは モンドリアンが渡米する十年ほど以前の 大恐慌のさなかです
ポロックが見たのは 繁栄の夢が潰えた 虚ろな現代都市です
そこにあったのは もはや 彼を流浪農民一家の貧しい生活から救い出してくれるはずの 憧れの都市ではなく 人々を かつてのよりどころであった 自然から遠ざける 巨大な障害物でした
生産と経済の効率を追究してきた 都市のシステムの失速は 都市が 自然と人間を いかに本質から遠いもの に変質させていたか をあからさまにしました
大恐慌時代の都市の失速した姿は ポロックを失意のどん底に投げこむことになります
ポロックの画学生時代
ポロックは長兄チャールズの世話でアート・ステューデンツ・リーグのT・H・ベントンのクラスに入ります 長兄チャールズは、一九二六年から師ベントンのもとで学び、三兄フランクも交えた親密な疑似家族の関係を成していました
十歳の時以来 父不在で強い父親願望を抱くポロックは この擬似家族にもぐりこみ師ベントンを「父」代理役に頼むこととなりました ベントンは若きポロックの不遇時代を支えます
ポロックは 彼のたちふるまいまでをそっくりまねてダンディをきめこみ 彼に倣う「アメリカン絵画」をめざします
パリでバルザックを気取る若き日のベントン(左)とそのスタイルをまねるポロック(右)
画学生ポロックがいかに師ベントンに心酔していたかが推察される
「JACKSON POLLOCK An American Saga」StevenNaifeh and Gregory White Smith, Woodward/White,1989
ベントンのアメリカンシーン絵画
二十世紀に入ってもアメリカ絵画の主流は古典の写実絵画でした
「アメリカン・シーン」絵画は 一九三〇年代、ヨーロッパ近代の抽象絵画を退け アメリカ人の見たアメリカの風景 生活のさまざまなシーンを描くことによって アメリカ独自の写実絵画をめざす運動です
「アメリカン・シーン」絵画は 現代のイメージ・情報のシステムが整備されるにつれて 最終的には社会の側の表現領域であるイラストレーションに吸収されてゆく運命にありました
西部の男たちの生活を描いたベントンの作品 (1934年)
ポロックの画学生時代
初期のポロックは デッサン力に問題があり 対象を描くのに苦労します
師匠となったベントンの絵をそのまま借りて コピーすることから画業を始めています
イメージを再現する絵画から始めたポロックは描く行為そのものに興味を持ち ついにはただ絵具 塗料を滴らせるオートマティズムに至りますが そこに行きつくまでには
苦悩のうちに模索をくりかえす長い過渡期を過ごさねばなりませんでした
ポロックが初期に描いた小さな自画像です
少年の顔は恐怖に引きつり大きく見開かれた目は前方を鋭くみすえています
ポロック少年は眼前の都市の闇に立ち向かっていけるのだろうか
眼前に広がる闇の世界 不況にあえぐ虚ろな巨大都市
絵の周囲には 暗黒の都市に跋扈する魑魅魍魎から無防備な自分を守るかのように 白と茶の壁がめぐらされています
ポロックの絵画は <現代都市からの疎外の表現>であり 都市の繁栄の夢が破れた時代の 精神の自己回復 の試みとしてあります
彼は欠しい装具を身にまとい 懸命に絵の見えぬ先をさぐることになります
過渡期のポロック
形の再現を捨てられず かといって徹底して対象を追うわけでもない
なかば具象なかば抽象にとどまり そのコンポジションに活路を求める模索の時期がつづきます
無題「人物と旗のコンポジション」1934-38 では 人物と旗が荒れ狂う波に翻弄され 人物は必死にそのうず巻きに抗っています
次に描かれたと思われる「旗」1934-38 と題する作品では 旗に火が放たれ 画面は まさに燃えさかる火の海と化しています
これらの表現では まだ 対象を描くことを通してしか表現できない苛立ちと 描写を捨て去りたいという思いが激しく交差するポロックの心情が表現されています
三八-四一年頃になると 対象のイメージは より象徴性を増してきます
近代絵画において ピカソの 意識 無意識レベルを自在に行き来するような イメージ操作は 幾多の画家の羨望の的です
画学生ポロックも例外ではありません
「ナイフを持った裸の男」を見ると 男の肉体の描写は いわばピカソ的な力強さが表現されています
また ユング心理学の影響も強まり この絵の主題は父殺しです
男子が成人するには 父を象徴的に殺さねばならないとされています
この絵では まさに 赤子を食い殺そうとする父を 成長して力を得た主人公が 刺殺そうとナイフを振りかざしています
「ナイフを持った裸の男」The Tate Gallery.London Gift oh Frank Lloyd
近代絵画の限界
ポロックの絵画の変遷を近代絵画の枠のなかでみると 写実絵画から抽象絵画への移行の一つととらえられます
そこで まず 古典的な写実絵画から近代絵画への変遷を概括しておきましょう
写実絵画では 描かれたイメージを自然そのもののように見せるため 画家の描く行為は絵画の空間の背後に かくされるべきものでした
天才 ベラスケスは別格におくとして レンブラントの絵具を盛り上げたタッチにしても あくまで描かれた対象を本物らしく見せるためのものでした
近代にはいると 画家たちの自己主張の意識がしだいに高まり 描く行為をあらわにするタッチが 画面上に現れてきます
一九世紀には ターナー さらには 印象派が登場します
近代絵画は 古典からひきついだ イメージを再現する要素と 画面に姿をあらわれたアクション的な要素とのせめぎあいのうちに展開されていくともみることができます
二〇世紀が近づくと 等質な空間としてあったはずの 近代の世界観は 揺らぎ始め
絵画の抽象化に向かう営みは 世界を再び確かなものとしてとらえようとする動きが強まります
その到達点が 一九一〇年代の キュービズムやモンドリアン カンディンスキーの抽象画表現とみられます
キュービズムは 自然をキューブの集積と見て 還元してとらえる試みでしたが 画家たちは対象がキューブの集まりに解消してしまう その一歩手前で立ち止まります
キュービズムの画家たちは 対象の再現性 即ち 目に見える具体的イメージを捨て得ませんでした
モンドリアンは 対象世界を 色面と水平 垂直の線というミニマムな要素にまで還元します
一方のカンディンスキーは表現性を極度に強めることで抽象画に至ります
絵画の枠組みを極限までつきつめたとはいえ画家は 絵画の表現性を捨てきれていません
彼らの抽象表現は 依然として 近代絵画の領域にとどまる表現といえます
シュールリアリズムのオートマティスム
一九四〇年頃 ヨーロッパの戦火を逃れ ブルトン ダリ エルンスト タンギーらのシュールリアリストたちもアメリカに渡ります
限界を迎えた近代絵画に突破のヒントを提供するのがシュールリアリズムです
戦後のアメリカ現代美術の誕生 にとっても 彼らの影響も見逃がせません
フロイトの無意識説に触発され 一九二○年代に ヨーロッパに登場するのがシュールリアリズムです
精神分析の自由連想 をもとにしたオートマティズム(自動書記法)と呼ばれるのが彼らの方法でした
オートマティズムは 意識のレベルでは 何の用意もせず 心をむなしくして
無意識の深みから立ちあがってくる 脈絡の定かでないイメージ をそのまま描き映そうというのです
無意識から湧き上がってくる画家のイメージは 現実から解き放たれ 自由度の高い空間を飛翔することになります
シュールリアリストに代表される このオートマティズムが現代芸術への飛躍のカギを握っていました
ポロックのオートマティズム
ポロックは シュールリアリズムの影響からでは なく 絵画療法での自由連想の体験から オートマティズムに至ります
1939年 失意のニューヨーク生活でアルコール中毒におちいったポロックは ユング派の医師 J・L・ヘンダーソンに精神分析を受けます
医師に反発し 内実を話そうとしないポロックに 医師は絵画療法を勧めます
絵画療法を続けるうち ポロックは自由連想によって イメージを描くことに不満を覚えるようになります
それまで制作してきたイメージを描く絵画は 覚醒した目で見ると 色あせて 不完全で断片的な図柄 の集まりでしかありません
彼は 描く行為自体のもたらす 高揚感と自己集中こそ 他者の介在を許さない リアルなものだとかんがえました
高揚感と自己集中のなかにいる時 彼は 自然とつながった 本来の自己 であると思えるのです
その時 彼は 分析を受ける都市の病者ではなく「自分が自然だ」と豪語するほど 完全な存在でした
こうした体験から 彼は ついに イメージに頼り 病み衰えたと思われる近代絵画 を捨て去ってしまいます
近代絵画からの跳躍
一九四八年後半から 五〇年をピークとするポロックの表現が 現代芸術の始まりであり 同時に近代芸術の終わりを示す結節点をかたちづくっています
それは 近代の絵画の表現の限界面からの さらなる跳躍 でした
「ポロックが氷を割った」と同じ抽象表現主義の画家デ・クーニングがと言うように
一九四〇年代の後半 ポロックは近代絵画とは全く違う芸術表現を始めます
それは ただ描くために描くという 行為そのものだけを積み重ねる絵画です
床にキャンヴァスを敷き 塗料をドリッピングするポロック
イーゼルにカンヴァスを立てかける通常のそれとは異なり
ポロックの制作は 画面を床に敷き 筆や棒から絵具 塗料を滴らせ 四方から画面を埋めていく というものです
その画面は 具体的なイメージは一切消え失せ 躍動する激しい絵具 塗料の 線や飛沫の集まりです
ここには 地下のマグマが煮えたぎっているかのような エネルギッシュな アクション行為の結果のみが とどめられています
現代に至り 近代絵画の行き詰まりに直面したポロックは 大胆にも 画家たちが仕事の主要部分とかんがえてきた 一方の絵画の要素 イメージを描くことを捨て去ります
後に残されたのは 描くというアクション行為だけです
彼は その描くというアクション行為だけ を頼りに 都市空間のなかで見失われた本来の自然につながろうと苦闘します
もはや 後に引けない場から生みだされる 芸術表現は 絵具 塗料に託された 彼の精神の集中と緊張に 満ちています
One: Number 31,1950,268 x 470cm The Metropolitan Museum of Art,
ポロックに始まる 抽象表現主義の登場は アメリカの現代芸術が ヨーロッパ近代芸術から袂を分かち ついに 独自の道を歩み始めたことを意味しています
かつて 清教徒として ヨーロッパを後にしたアメリカ人は 芸術においては その約二百年後 ついに自らの新領域 を見いだすのです
自己回復のための精神分析
都市の夢が潰え アルコールに溺れるようになったポロックが 自己回復のために頼ったのが 先にふれた ユング派の医師による精神分析でした
ところで いち早く 無意識の領域を発見し 精神分析学を興したのはフロイトです
フロイトの無意識説は 近代のシュールリアリズムやポロックの抽象表現主義 をはじめ 現代の表現にも 大きな影響を与えています
フロイトの無意識説は 近代の認識の限界を超え 二〇世紀現代を開くかんがえの一つとして重要です
フロイトの無意識説は一九二〇年代のシュールリアリズム運動を呼び起こし その流れが ポロックのアクション・ペインティングをも生むことになります
フロイトは一九〇〇年には 「夢判断」一九〇一年には「生活心理の錯誤」としてまとめられる論文を発表します
精神分析学は 彼の無意識領域の解明から生まれています
フロイトの無意識説によれば 通常 私たちが精神そのものとしてかんがえてきた 意識の領域は 実はその一部でしかなく 大部分を占めるのは 意志のコントロールの及ばない無意識であることになります
精神分析家の木田恵子氏が
「無意識の中は、母の胎内にはじまり もはや再生することも困難な人生の初期の体験から 抑圧されたさまざまの表象で満たされています 」
と説明するように フロイトは無意識の内容を 個人の成長課程(親子関係)に限定して考えます
彼によれば 人間の性格を決定づけるのは 胎児から幼児期にかけての心的体験です
彼は そのうちの 手ひどい体験が 無意識の領域に沈み込み 古い傷のように残されものを<固着>と呼びました
養育者 主として母親との関係から ダメージを受けた体験は 意識が記憶するには あまりに危険で おぞましく 無意識の奥深くに 抑圧され隠されます
普段 <固着>を抑圧し 内面の平静さを保つために 現実に向けるべき心的エネルギー のいくらかが消費されます
ところが <固着>を抱える精神が 環境の大きな変化に揺さぶられると<固着>を押さえ込むために ますます多大なエネルギー を必要とするようになります
心的エネルギーのほとんどを消費してしまい 現実に立ち向かえなくなった状態 が神経症などの症状だとフロイトは説明しています
中央の点線部以下が無意識部分(もっと上までの
ような気がするが)前意識は点線すれすれにあり
波のまにまに浮き沈みしている いずれの要素も
下部は無意識下にとけ込んでいる
図式は吉本隆明「心的現象論」より引用
Sigmund Freud 1856-1939
フロイトの自由連想法
<固着>を意識のもとに引き出して 心的エネルギーの消耗状態 を解消しようとするのが 精神分析の自由連想法です
フロイトに直接指導を受けた 古沢平作の門下 分析家 木田恵子氏によると
「私どもは普通人と話す時は これはつまらないことだとか 今日の自分の問題に関係のないことだとか こんな話は恥ずかしくてできないとか この話は不愉快だからやめようとか 相手(先生)に対して失礼だから こんなことは言えないとか 自分の話の内容をセーブしますが そういう批判や選択を一切やめて 何でも浮かびさえすれば話すというのが基本です」と説明しています
その方法は 患者は思い浮かぶことを 判断を加えずにすべて話し そこにあらわれた無意識の内容に分析者が解釈を加え 次第に無意識の内容に脈絡をつけていき <固着>のあり方を患者に気づかせ 解消するというものです
先の木田恵子氏によると
「この自由連想法を用いると まことに不思議なほど 着々と精神が退行してゆき 幼児の感情は 時には胎児にまで戻ってしまったか と思わせられるようなもの まで表現されます
こうして その人の性格が形成された歴史 をさかのぼり 問題点を拾いあげながら 赤ちゃんの最初まで行きつくと 再出発がはじまって 着々と 成長課程をたどって 進行してゆきます
そして 問題点をできるだけ 修正しながら 現在に立ち戻ります
まことに 分析するの もされるのも 忍耐根気のいる仕事ですが ひとわたり終わって症状がきれいに消失する場合もあり 前述のように とくに問題の箇所が何度もくり返し取りあげられた後 ようやく治癒する場合もある」 のだそうです
ポロックの荒れた無意識
一九三九年 ポロックは 精神分析を受けたユング派の医師 J.L.ヘンダーソンに 治療の一環として
絵画療法を勧められ 自由連想による多くのデッサンを試みます
フロイトの精神分析から それらのデッサンを見ると 母子関係の悪さ 特に出産直後の母親の対応の悪さ 何らかの原因で 子供に向けられた憎悪 を彼が体験したことを物語っています ポロックが人格の基礎を築くべき 乳時期に 味わった母親に対する 渇望と憎悪 恐怖は 強度の<固着点>をかたち作り 彼の人格を揺さぶり 生涯彼を苦しめた とかんがえられます
木田氏も説明するように フロイトの自由連想法であれば 性格形成の歴史をを生を受けた時点までさかのぼり そこから問題点をできるだけ修正しながら 成長課程たどり直し 現在に立ち戻るという 母子関係を主とした人格形成のやり直しがめざされます
しかし 後でみるように ユングの分析では 母子関係を主とする視点とは 異なり 個人の持つ男性 女性の元型像の強度の問題 として症状を解こうとします
ヘンダーソンは ポロックのデッサンに描かれた 女性像の強烈さを むしろ芸術表現の可能性として興味を持ち その進展を励ましました
しかし 彼の乳児期の 欠損による無意識の荒れには 手当てが届かず ポロックの 満たされぬ渇望による飲酒癖と感情的な爆発は 生涯 ついに 癒されることはなかったのです
ユングの無意識の概念は ポロックの芸術を開花させるものの 彼は自身の 荒れた無意識の欠損 を埋め得ず 彼を一気にその終幕へと走らせることになります
無意識とのギブ・アンド・テイク
現代では かつて画家たちが通った 自然に至る道は 都市に隔てられ 見失われています
ポロックは 自然に至る迂回路道を無意識に求めます
彼は 近代の合理主義に基づく方法 を打ち捨て 無意識を通路として 世界の本来の姿である 自然 に至ろうとします
「私の絵の源泉は無意識である 私は絵にアプローチするのに デッサンと同じやり方でする つまり 直接の予備的な習作なしにである」とポロックは言います
ポロックは 自らが 治療者のベッドに横たわる代わりに カンヴァスを床に寝かせます
自分は 無意識を通して自然とつながっている とする 内面の緊張感だけを頼りに
彼は 絵具や塗料を含んだ筆を振り 四方からそれを滴らせます
絵は すでに無意識の深層に用意されています
彼はアクション行為を通してその生命と接触を保つだけ でよいのです
アクション行為に集中すれば 絵は自然に無意識から現れ出てきます
彼の落とす絵具の滴りが 彼を触発し さらなるアクション行為に向かわせます
彼が 制作で 唯一気づかうべきは 絵をさし出してくれる 無意識と自分の ギブ・アンド・テイクの関係を 可能な限り持続することでした
ユングの無意識
C.G.Jung1875ー1961
無意識を発見し 精神分析学を興したのはフロイトですが ポロックの分析医は 当時アメリカで人気のあったユング派でした そのため 彼が影響を受けたのはユングの無意識説でした 一時は師弟関係にあった彼らですが その無意識説は大きな隔たりをみせています
フロイトのいう無意識は あくまで個人の心的体験が意識下に沈み込んだものでした
一方 ユングの無意識は 個人の時間を超えて広がっています
ユングによれば 無意識は 太古の時代から蓄積された 人類に共通する 神話的な心的内容です
その根拠は ある患者が訴えた 太陽に男根が見えるという妄想でした
その妄想は 古代ギリシャの パピルスに書かれた神話 と一致していました
彼は そこから 人間には 太古からの心的体験が意識下 に沈み込んだ共通部分 があると確信するのです
集合的無意識 と呼ばれるのがユングの無意識です
それによれば 私たちの無意識の領域には 人類が民族や宗教をかたちづくってきた 元型と呼ぶ神話的要素 に満ちているのです
このかんがえは 私たちを 一挙にロマンチックな存在 にします
彼の 集合的無意識説に従えば 人は自身の体験を越えた存在です
人は無意識の広がりによって 勇ましく牛を追うカウボーイでもあり得るし 太古の宗教者でもあり得えます
ユングの論の壮大さは 大恐慌にうちひしがれたアメリカ人に 恰好のロマン神話 を提供しました
しかし 本来 個人の存在と社会は 同一視できない 矛盾した存在です
その ロマン神話は 社会と個人の誕生 を同じ次元で扱う誤謬 の上に成り立っていす
ユングの誤謬は ポロックのアクション行為 を神秘化してしまいます
彼の アクション行為は 内的世界を探るだけでなく 世界の根源 をさぐるという 過大な意味を負いました
ポロックは 無意識から立ち上がってくるイメージを 排除し 無意識の深層に広がる 自然と直接交感しよう と格闘します
彼は イメージを捨て 退路を断ち 後戻りのできない格闘に挑んだのです
しかし ポロックのアクション行為の神秘化は 彼と現実とのギャップ をさら広げていきます
ポロックの荒れた無意識
ポロックの受けた精神分析に話題を戻すと ポロックは 彼の分裂病を疑うユング派の医師 J・L・ヘンダーソンに 激しい反発を示し内面に踏み込むことを許しません
医師は会話が成り立たないこと患者ポロックに 絵画療法を勧めます
ポロックは自由連想による 多くの*デッサンを残すことになります
*JAKSON POLLOCK : PSYCHOANALYSTIC" DRAWINGS DUKE■DUMA published by Duke University Press1992
1992年各地で開かれたポロック展のカタログとしてまとめられた 絵画療法で描かれたポロックのデッサンを網羅する
ポロックは ユング理論に挑戦するかのように 女性像 動物 マスクを ある時は ピカソをおもわせる才能あふれたものに ある時は憎悪そのもののようなおぞましいなぐり書きにとその都度変化させます
ポロックの無意識から拾いだす あるいは あふれ出すイメージは 転倒する馬車と馬 恐怖で泣き叫ぶおぞましい母 おびえる幼児 に集中しています
デッサンの目まぐるしい変化と憎悪の強烈さに翻弄された分析家ヘンダーソンには 一般的な説明以上に解釈を進めることはできませんでした
一年ほどで治療は中断され 彼は他の医師にポロックを委ね サンフランシスコに去ります
三〇年ほど後の一九三九年 分裂症とみなしていた一患者が 早逝した現代芸術の巨匠ポロックその人であったことを知ったヘンダーソンは 治療時のデッサンをマックスウェル画廊に売却します
今私たちがポロックのプライベートなデッサンを見られるのはこの抜け目のない彼のおかげです
ユング派の分析ではフロイトの視点と異なり 個人の持つ元型像(アーキタイプ)アニスムアニマなどの強度の問題として症状をとらえます
それにくわえ 治療時も医師に対して憎悪を浴びせるポロックは医師の解釈を寄せつけず
自身をも ふりまわすことになり治療は進展しませんでした
さらに悪いことには 治療の途中で医師が代わると 患者は上位者から唾棄されたという感じに陥ります
分析医が自分の都合で治療を中断することは回避すべき悪しき道すじです
ポロックは<医師をやりこめてやった>と溜飲を下げる一方で<やはり自分は見捨てられた>と乳幼児期にため込んだ喪失感をいっそう募らせたに違いありません
それ以後も何とか立ち直りを願うポロックは あやしげな民間療法に手を出すなど もがき苦しみますが 彼の荒れを癒すすべは見つからず 満たされぬ思いに起因する飲酒癖と感情の爆発は 生涯 ついに 癒されることはなかったのです
ポロックが分析治療から得た唯一の収獲は ユングの無意識説にもとづいて無意識の領域を探究する方法 を得たことです
その収穫は ポロックの芸術表現を開花させます
しかし 良き手だてにめぐり合わないないまま 残された無意識の欠損は 彼をじりじりと終末へと引きよせることになります
ポロックを見捨てたペギー
ポロックの才能を認め 最初の個展を開かせたのは 戦火を逃れてヨーロッパから帰国した前衛美術の収集家 ペギー ・ グッゲンハイムです
彼女は帰国すると 一九四二年に画廊「今世紀の美術」を開き 亡命芸術家や若手の芸術家たちを積極的に支援しました
ペギー・グッゲンハイム 1898-1979
グッゲンハイムがかまえた館は 前衛芸術家たちのサロンでした
彼女のまわりには 夫であったマックス. エルンスト マルセル. デュシャン をはじめ 絶えず芸術家たちの姿がありました
若きポロックは 世間はもとより 彼女に対しても あくまで絶対的な評価を求めます
ポロックの 飲酒と粗暴なふるまいに グッゲンハイムは 完全に愛想をつします
「彼はワイオミングの田舎から出てくるべきでなかった まるで罠にかかった動物のよう
荒れくるっている」
という言葉を残し 一九四八年 彼女はアメリカを去ります
しかし 意外なことに ペギーに見捨てられたことを契機に 彼の芸術表現は開花します
スプリングスの平穏な日々
一九四七年五月 ペギー・グッゲンハイムはヨーロッパに去り ポロックの商業主義へ迎合する時期は終わりを告げました
彼は 自身の手になる 聖なるぼろスタジオ にこもり かつての「イメージを隠し抽象化する」といった回りくどい手法に煩わされることなく制作に打ち込みます
妻リーは ようやく当初の目標通り 夫ポロックをわが手のうちに収め 思うままに母代理役をこなした
彼女は 隣人の画家ウィルコック 画家マッタ夫妻 批評家ローゼンバーグ夫妻 グリンバーグ夫妻らを週末に客として招き 料理をふるまってもてなしました 母ステラも頻繁に訪れたといいます
ポロックは 酒量も減り 夜は十二時間も眠りました この頃 ほぼ毎日ポロックのスタジオを訪れていたウィルコックによると 「ポロックは 百パーセント活動していた」といいます
妻リーの手厚い世話に包まれたポロックは あたかも恵まれた幼児のように充足した日々を過ごしています
進展するポロックのオートマティズム
進展期 ポロックが絵画の技法として得たのがオートマティズムでした
それは「原感情の表出」を一歩前進させポロック独自の抽象表現を引き出すものの 同時にその表出をイメージによる表現を追究する近代絵画の枠組みに止めるものでもあったため ポロックの精神に大きな不満を残しました
ポロックは その不満からさらに歩を進め より直接的な心的世界を表現することをめざします
彼は ポアリング(ドリッピング)の技法に集中し 感情 感性のうごめきを垂らす絵具の様態そのものに重ね合わせようとします その結果 イメージとなって立ち上がろうとする かつての絵画の要素は 徹底して画面から排除されてゆきました
ポロックが絵画の技法 オートマティズムに加えた大きな変更は イメージ追究の一方法であったそれを より直接的な心的世界の表現の方法に転換したことです
ここに至って ポロックは 近代絵画を突破し得る技法 を手にし まさに開花目前の地平に立ちました
ローゼンバーグの「ポシビリティズ」
一九四七年 批評家ローゼンバーグは 画家マザウェルとともに 前衛芸術誌「ポシビリティズ」を発行します
ローゼンバーグは 現代の前衛芸術を現代のマス・メディアや大衆文化から疎外された個の表現である として ポロックを先導役にアメリカの現代芸術を主導しようと考えていました
この雑誌には ポロックから聞き出した彼のオートマティズムに対する考えを ローゼンバーグの芸術観に沿うかたちにまとめた記述があります
「・・・自分が絵のなかにいるとき、私は自分がなにをしているか意識しない いわば『なじんだ』時期をへてはじめて私は自分がなにをしていたかを知る
私は変えることやイメージをこわすことをおそれない なぜなら絵はそれ自体の生命をもっているのだから
私はそれを全うさせてやろうとする 結果が滅茶苦茶になるのは 私が絵との接触を失ったときだけである
他の場合には 純粋なハーモニー 楽々としたギヴ・アンド・テイクが生まれ 絵はうまくゆく」
ここでは ポロックが無意識レベルに集中する状態を差し出せば 絵画はおのずからから得られるとする「ギヴ・アンド・テイク」の関係が語られています
しかし ポロックのオートマティズムの行程はこれでだけでは完結しません
つまり ポロックが無意識レベルに注意を集中 し無作為にカンヴァスに絵具を垂らす結果が すぐさま彼の芸術となるわけではないのです
そこには 必ず 画家の意識の選別がはたらきます
彼は 感性が受け入れて よしとする 絵具の様態だけを画面に止め これは違うと 判断すれば 直ちにその上に さらなる絵具を垂らし それらの線や飛沫を消し去ってしまいます
このように 意識と無意識 精神と絵画のあいだで 感性をつなぎ役として置き 可能な限りポアリング作業を進め 無意識の闇に映り込む 個と時代の本質 を画面に引き出そうとする のが ポロックのオートマティズムだ といえるでしょう
ベティ・パーソンズ画廊での個展
一九四八年一月 ポロックは ベティ・パーソンズ画廊での最初となる個展を開きました
都合五回目の個展です
「ゴシック」「錬金術」 「カテドラル」 「コメット」 「魅惑の森」「フル・ファントム・ファイブ」 「魔王」 「燐光」 「ビッグ・ジッパーの反射」 「海の変化」を含む四七年の作十七点が出品されました
ポロックのオートマティズムは さらに感情 感性の表出の強度が上げられ イメージがほとんど排除されています
個展のオープニングに訪れた客たちは イメージの見当たらないポロックの新奇な作風に戸惑うばかりでした 会話の途絶えたオープニングの会場は息苦しさに包まれたといいます
「フル・ファントム・ファイブ」1947 129.2×76.5cm The Museum of Modern
ライバルデ・クーニングの登場
アメリカが戦後の物質的な繁栄の道をひた走る一九四八年四月 ポロックのライバルと目される四十四歳のデ・クーニングが 「女」シリーズをひっさげ イーガン画廊からデビューを飾りました
デ・クーニングの抽象絵画は「女」に対する激しい憎悪の表現です
しかし 彼が憎悪を向ける「女」は 現実の女性ではなく マス・メディアがくりだす記号化されたイメージ記号の「女」です
デ・クーニングの表現は 現代都市を象徴する記号のひとつ「女」の虚像を 憎悪をもって打ち砕き 都市で失われた人間の実像の回復をめざすものとみられます
その抽象的な前衛絵画は 描き方の違いはあれ 主題を「女」と定め 従来の絵画を踏襲する近代に軸足を置いた表現だっただけに 人々にすんなりと受け入れられます
近代美術館は数日後には作品の購入を決め彼は一気に注目される存在となります
「女Ⅰ」1950-52 192.7×147.3cm ヴィレム・デ・クーニング ニューヨーク近代美術館
ゴーキーとのにらみ合い
ポロックは 八丁目の「ジャック・ザ・オイスターマンの魚料理店」で開かれたデ・クーニング展のオープニング・パーティに乱入し 愛用のポケットナイフで鉛筆を削る長身のゴーキーにつめよると 依然としてヨーロッパ近代絵画の影響下で 内的イメージを描く 彼の絵画を口汚くこき下ろしました
たまたまポロックの怒りの矢面に立ったゴーキーは 「ミスターポロック 僕と君とは違う種類のアーティストだということだ」と鉛筆を削るナイフをポロックの喉元に近づけました ゴーキーとポロックがにらみ合う一触即発の事態は 知人の画家バジオテスのとりなしで辛うじてことなきを得たといいます
抽象絵画の総称「抽象表現主義絵画」一般化
「二ユーヨーカー」誌のロバート・コーツは ポロックとデ・クーニングをその中心に位置づけ 戦後アメリカが生んだ激しい抽象絵画を総称して「抽象表現主義絵画」と呼びました
この概括と呼称が一般化することになります
イメージ・記号を否定するポロックの芸術表現と イメージを描くデ・クーニングの前衛絵画とは 明らかに成立する位相を異にしますが
当時 前述の抽象表現主義の見方が一般化し 彼らは好むと好まざるとに関わらずライバル同士 とする見方のなかに置かれるようになりました
孤立し荒れるポロック
一九四八年夏 美術界は デ・クーニングの折衷策に雪崩をうって同調し イメージを描くアメリカ前衛絵画の興隆は決定的なものになりました
ポロックはまさに四面楚歌の孤立状況に陥り 苛立ち荒れ狂いました
彼は 地元の酒場で酔いつぶれるまで続けさまにウィスキーをあおったといいます
ポロックの怒りの発作はすさまじく 「パルティザン・レヴュー」誌の記者と喧嘩し 連れの女姓の高価な靴を引き裂き窓から飛び降りようとした事件 も起こします
それらの行動は 突然の激情に駆られた あまりにも発作的なものでした
ヘラーの奇跡
一九四八年秋 ポロックはイースト・ハンプトン医療センターのエドウィン・ヘラー医師からアルコール中毒の治療を受けます 精神安定剤のフェノバビタールなどを処方するこの治療が効を奏し 彼は以後二年間禁酒することになります
ポロックは この医師から親身な治療を受けたことを契機に 美術界で孤立無援となった現実を自らの試練として甘受する心境に至ったとみられます
平静を取り戻したポロックは酒を断ち制作に集中します
妻リーは、ポロックの評判を立て直すために「ヘラーの奇跡」をふれまわりました
ポロックは心身ともに充実し すでに十二月には、翌年一月予定の個展の出品作をすべて完成させていました
イメージを超えた源感情の表現
一九四九年一月 ポロックは ベティ・パーソンズ画廊で二回目の個展を開き 主に四八年に描かれた二十六点を出品します
「ナンバー1A」 「ナンバー5」 「ナンバー10A」(木馬) 「ナンバー13A」(アラベスク) 「ナンバー24A」(白いコカトー) 「ナンバー26A」(白と黒)など
ナンバー26A ロサンゼルス現代美術館
ポロックは あたかも車のアクセルを踏み込むように 描く線のスピードを上げます
高速で疾走する車からみれば 風景は溶けて飛び去る線の集まり でしかなくなります
作品の画面には さらにスピードを上げ イメージを超えた地平に至ろうと はやる線が縦横に駆け巡っています
ここに至って ポロックは イメージを追う シュールリアリズムのオートマティズム を超えた 独自のオートマティズム に到っています
「抽象表現主義絵画」が持つ重圧
「抽象表現主義は 人間と作品が等価である といった 自己告白 と自己混在があり そのことが いつも私を遠ざけさせていた」 と抽象表現主義を批判したのは ラウシェンバーグです
彼には ポロックらの 無意識を経由して 都市から遠ざけられた自然 を求る行為 は 画家と表現を 神秘化し 同一視する 不自由なものに映りました
抽象表現主義を遠ざけた ラウシェンバーグは 無意識を介在させず よりストレートに <現代都市の疎外>を直視する表現 に向かいます
ポロックが<現代都市の疎外>の重みに耐えきれず 自殺ともとれる自動車事故でこの世を去ったのは ラウシェンバーグがジョーンズと出会い 彼らが 都市を直視する あらたな芸術表現を紡ぎ出し始めた
一九五六年のことでした
個人的には お気に入りポロック作品2点
残念ながら 文面には登場させられなかったので オマージュをこめてここに掲げます






ユングはフロイトの無意識(この図では個人的無意識)をより拡大し
集合的無意識の存在を主張した
そこには 人類が太古から経験してきたイメージ体験が 無意識内に
「元型」として蓄積されるとする
「元型」ー男性性「アニスム」「老賢者j 、女性性「アニマ」「太母」など
ユングが 集合的無意識の存在 を確信したのは
古代ギリシャのミトラ祈祷書に書かれた記述ー「太陽のありがたい筒 」と
ある分裂症患者の妄想ー 「風が吹くと太陽のペニスが揺れるのが見える,,」
が一致しているのを発見した事による
図は 河合隼雄 ユング心理学入門 培風館 1967 より引用







河合隼雄氏による東洋人の無意識図
上部点線部が西欧人的な意識である それに対して 東洋人的な自己の中心はその下部に広がる無意識部分にあるとしている
この図は 先に見たフロイトの図の内容と合致するし より明瞭だとも思える
彼がユング派分析家であるところが興味深い 数多の分析経験からかんがえだされたという
ポロックのギブ・アンド・テイクは まさにこのような 無意識領域に存在する自己を追究しているとかんがえられる


「男性と女性」1942頃「ポアリングのあるコンポジション2」1943
この時期のポアリングはまだ画面の構成要素にとどまっている
「自画像」1930-33 18.4×13.4cm
スチューデント・リーグにはいったころの自画像である
暗く怯えた表情には都市への落胆と憎悪がにじみ出ている
まるで破れた兵舎の穴からおびえた少年兵が闇に潜む敵を伺っているかのようだ
「西部へ」1934-38年頃 38.4 × 52.7cm 写実的画技量が未熟だったポロックはスチューデント・リーグの教師Thomas Hart Bentonの絵をそのまま模写することから絵の勉強を始める





ポロック絵画療法の一枚 15×11インチFF
幼児期のおぞましい事件 母と同乗した馬車が転倒した事件
暴れる馬 泣き叫ぶ母 倒れた馬車 放り出された自分(胎内だろうか)無関心な父 などのモチーフが執拗に繰り返される37枚の素描が残されている
当時の恐怖の感情がポロックの内に強固な固着となって残されていることが
うかがい知れる
無題「人物と旗のコンポジション」27×29.8cm 1934-38 Lee Krasner Pollock
「炎」1934-38 52×76cm The Museum of Modern Art ,New York


「Autumn-Rhythm-Number-30」1950Jackson-Pollock266.7x525.8cm
Museum of Modern Art N.Y.
